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Saru kani kassen: riscritture e reinterpretazioni di un mukashibanashi in periodo Tokugawa

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Academic year: 2021

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Corso di Laurea magistrale (ordinamento ex

D.M. 270/2004)

in Lingue e culture dell'Asia Orientale

Tesi di Laurea

Saru kani kassen:

riscritture e reinterpretazioni

di un mukashibanashi

in periodo Tokugawa

Relatore

Ch. Prof. Bonaventura Ruperti

Correlatore

Ch. Prof.ssa Luisa Bienati

Laureando

Elena Follador

Matricola 815685

Anno Accademico

2012 / 2013

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要旨 今日語られている『猿蟹合戦』は次のような内容で知られている。 むかしむかし、あるところに蟹と猿がいた。ある日、二匹が山へ遊びに行った。そこで、 蟹はおにぎりを、猿は柿の種を見つけて拾った。猿は柿の種とおにぎりをむりやり交換さ せてから帰ったが、蟹は真面目に種を蒔き、水をやり育てた。木が大きくなり、実も多く 生った時、蟹が枝まで登ろうとしたが、出来ずにあきらめたところ、猿がやって来た。猿 は実をもいであげると嘘をつき、木に登り熟した柿を食べながら、蟹には渋いものだけを 与えた。蟹がそれについて文句を言い出すと、猿は怒り、柿を激しく投げつけ、甲羅を破 り蟹を殺してしまう。しかし、みじんに砕けた甲羅からは小さい子蟹が生まれ、親の仇討 を誓う。友達の臼・蜂・栗・牛の糞と共に計略を企て、猿が留守の時に、家に忍び込み、 皆がそれぞれの場所に隠れる。そこへ猿が帰り、暖まろうと囲炉裏の傍に座ったところ、 灰の下に身を潜めていた栗が飛び出し、火傷をさせる。その痛みを和らげるために水桶に 近づくと、そこから蜂(又は蟹)が出てきて猿を脅かす。怖がって家の外へ出ようとする 猿は、入り口の近くで待っていた牛の糞に滑ってしまい、屋根の上から落ちた臼に潰され る。 猿が死んだかが分からないままで終わるバージョンもあるし、謝るので蟹がそれを勘弁 し命を助けるといったバージョンもある。今の子供絵本にはこのように二つの話があるの は、江戸時代の大衆文学の流れのためであると言えよう。実際には、江戸時代の作品には 結末のみならず、人物の数や助っ人の種類など、話の筋の様々な面が異なっていたのであ る。この論文では、 猿蟹合戦に関してすでに行われた研究に伴い、その最も古いとされ ている作品の時代、十八世紀の始まりにまで溯り、この昔話を分析したいと思う。 第一章では、十九世紀より近年までの研究がまとめられている。猿蟹合戦に興味を持 ち、初めてそれに関して調べた学者は、戯作や読本の作家として有名な滝沢馬琴と、その 弟子の山東京伝であった。二人とも話の由来が大陸にあると思っており、中国とインドの 古典文学に猿蟹合戦の根と「枝葉」を探ってみた。

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その後、再び昔話を研究しようとした学者が現れるまで百年ほど待たなければならな い。小池藤五郎氏は、一九三〇年代に小学国語読本をめぐって発生した論争をきっかけに、 猿蟹合戦の起源を改めようと思い、それを日本文学の中に探るべきであると判断した。 元々は室町時代に成立した、蟹の眷属(親族)と猿の眷属との戦争物であったらしく、お 伽草子の一つのジャンルである異類合戦に基づいていると述べている。助っ人が家の中に 隠れ、順番に猿を攻める箇所が後から加えられ、徐々に戦争の話より仇討の話になってき たと論じている。 数年後、島津久基氏が日本だけではなく,外国にも猿蟹合戦の前半と後半に似た独立の 昔話があるということに気がつく。もとよりの合戦型の話が少しずつ仇討型になり、曽我 兄弟の伝説の影響を受け、子蟹の人物も登場するようになったという。島津氏は初めて口 承文学で伝えられた話も取り扱い、中国にとどまらず、韓国やモンゴル、インドネシアな どといった様々な国の昔話を日本の昔話と比べてみたのである。 その次に論文を出した柳田国男氏は、二十世紀の始まり頃、日本中で語られていた昔 話を中心に、猿蟹合戦の最も古い筋を復元しようとした。柳田氏は、猿と蛙が一緒に餅を 搗くが、猿の我がままな行動で餅の入っていた臼が山より転び落ち、結局蛙がそれを全て 食べてしまうというのが、東北に数多く残った話であり、本来の内容であったと述べてい る。 仇討ちの部分の方は、自立した昔話として中国などに見つけられるが、それは恐ら く後から渡来され、腕利きの座頭により猿と蛙(のちに蟹)の話に面白く付けられたのか もしれないと述べている。 柳田氏の行った日本国内の昔話に関する調査を踏まえつつ、今川恵美子氏は自身でも 猿蟹合戦の例を集め、それにいくつかの江戸時代の作品を平行させ、筋の展開を明らかに することを試みた。その結果として、島津氏の推測したように、合戦型より個人の仇討型 へ変化し、最終的に親孝行仇討になったと論じている。 1980年代に入ると、関敬吾氏は、島津氏と柳田氏の研究と共に、フィンランド人 の民俗学者、アンティ・アアルネとドイツ人のフリッツ・ルムプの研究を付加し、猿蟹合 戦を中心にアジア中の昔話を考察した。数多くの例を取りつつ、アジアの話がどこで発生 したものかは分かり得ないが、猿蟹合戦が二つの昔話の総合によって成立した日本のみの 昔話であると説いている。 『日本昔話事典』の編集者でもある稲田浩二氏も、前半の「動物葛藤」と後半の「仇 討ち型」を別々で分析し、それぞれが日本列島並びに世界の口承文学の中にどれほど広が

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っているかを詳しく調べた。特に、後半か又は後半に似た話が欧米にも存在するモチーフ であり、稲田氏は原初の思想アニミズムに基づいていると述べている。採集狩猟時代の人 類が巨人動物を狩っていた時、成員が各人各様の分担をもって参加してきた様相をこの話 に含めていたという。 一方、斧原孝守氏は、猿と蟹の一つだけの話を考察し、結末に蟹がなぜ螯に毛がある のかを説明して、「なぜ話」のように終わるものが、アジア諸国においてどれほど伝播し ているかを調査した。   初めて江戸時代の猿蟹合戦に関する作品を全て集められたのは、沢井耐三氏である。 沢井氏の目的は、今日知られている「猿蟹」の話と少し異なった形が例外ではなく、西日 本に「猿ヶ島敵討」という類型であったのを論証することである。その類型には、おにぎ りと柿の種の交換がなく、蟹が猿にいじめられてから、敵討ちに出かけ、猿が島へ向かう 途中で栗・挽臼・鋏などに黍団子を与えて家来にし、最後に計略による順を追った攻撃で はなく、普通の戦いで猿を退治する。 最も新しく出された花部英雄氏の論文では、桃太郎系猿蟹合戦が取り扱われる。それ が北より来た怪物退治譚と、南より来た食物争い譚の二つの気流が、日本において会った 時に産まれた昔話であり、その後その話より桃太郎が産まれたという。 第二章では、猿蟹合戦の徳川時代の作品が大きく四つの節に分かれており、分析され ている。最初の節には最も古いとされている宝永年間(一七〇四 一七一一)の赤本、又 は正徳年間(一七一一 一七一六)の絵巻より黄表紙の現れる頃までの赤本と黒本青本、 第二節には十八世紀の最後の三十年間の黄表紙と漢文の版本、第三節には十九世紀の前半 の合巻・読本・随筆・漢文での写本と版本、第四節には幕末の豆本・おもちゃ絵・錦絵・ 双六・絵巻が集まっている。それぞれの作品の内容や伝わってくるメッセージ、登場人物 の擬人化の仕方などに関して記されている。このような分析をもって時間と共に猿蟹合戦 がどのように変化してきたかということが若干でも理解できるであろうと思っている。 例えば、最初の絵本の頃は、様々な筋もあったし、蟹の助っ人には臼・杵・蜂・栗/ 卵の他に包丁・荒布・蛇・真名板・杓子・蛸なども登場するし、猿が一匹のバージョンも あるが数多くの敵を討つ本もあることから、まだ話が一つの形に定まっていなかったこと が伺える。なお、大人向けの黄表紙となると、話の中心が蟹の仇討ちではなくなり、その 代わりに猿と蟹が最後に仲直りするというめでたい結末になる。又、現在語られている話

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には蟹の子供が必ずいるが、猿蟹合戦の筋に親の蟹が殺されるのが一般になるのは十九世 紀に入ってからである。それは、悲劇や哀感に満ちていた合巻や読本の作品の流行が、こ の昔話にも影響を受けたからであると言えよう。しかしながら、猿蟹合戦が今日のものに 近づいてきたのは幕末の豆本などの影響のためであろう。その頃は、助っ人が三人(臼・ 蜂・卵)に定まり、結末には今と同じように二つのパターンがあり、猿が臼に押さえられ ることによって、蟹がそれで敵を討ったというパターンと、猿が謝り蟹が勘弁するという パターンがある。 第一章に見た学者達が、全て明治時代以降に集められた資料を使いつつ研究を行って いたが、江戸時代の昔話集などがないため、どのように話が伝われていたかを知るために 文学作品を見るべきであると言えよう。 第三章では、天明元年(一七八一)に刊行された『蟹牛房挾多』という黄表紙を紹介 する。日本語での部分とイタリア語での部分と二つに別れており、日本語での部分におい て、まず、変体仮名を現代仮名遣に直し、翻刻を行った。そして、単語に漢字を与えるこ とと、句読点を打つことによって校訂を施し、最後に注釈をつけた。その上に、イタリア 語の翻訳とイタリア語での注釈も補った。 この作品は、教訓的な話で有名であった市場通笑(一七三七 一八一二)が著し、挿 絵は黄表紙の最初の発達段階において活躍していた鳥居清長(一七五二 一八一五)が描 いたものである。"教訓の通笑"と呼ばれていたにも関わらず、よく知られていた猿蟹合戦 に当時の様々な流行していた歌謡やお店などを加え、ユーモアに富んだ黄表紙を作り上げ た。それゆえに、猿蟹合戦の流れを研究するためだけではなく、江戸時代後期の風俗を理 解するのにも重要な資料になるであろうと思っている。

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INDICE        

INTRODUZIONE  :  che  cos'è  oggi  Saru  kani  kassen...   3  

        CAPITOLO  1  :  Gli  studi  precedenti...   10  

1.1    Takizawa  Bakin...   11   1.2  Santō  Kyōden... 15 1.3  Koike  Tōgorō... 16 1.4  Shimazu  Hisamoto... 19 1.5  Yanagita  Kunio... 22 1.6  Imakawa  Megumi... 27 1.7  Seki  Keigo... 29 1.8  Inada  Kōji... 32 1.9  Onohara  Takashi... 35 1.10  Sawai  Taizō... 37 1.11  Hanabe  Hideo...   38         CAPITOLO  2  :  Testi  di  periodo  Tokugawa...   43  

2.1  Opere  1-­‐13:  primi  kusazōshi,  kabuki,  manoscritti...   56  

2.2  Opere  14-­‐24:  kibyōshi,  kanbun... 69

2.3  Opere  25-­‐37:  gōkan,  yomihon,  zuihitsu,  kanbun... 80

2.4  Opere  38-­‐  61:  mamehon,  e  (omochae,  sugoroku,  nishikie),  emaki... 89

2.5  Conclusioni... 98

BIBLIOTECHE  /  COLLEZIONI... 103

FONTI  IMMAGINI  SECONDO  CAPITOLO... 108  

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CAPITOLO  3  :  Kani  ga  gobō  hasanda...   113  

3.1  市場通笑の黄表紙『蟹牛房挾多』の翻刻...   114  

3.2  市場通笑の黄表紙『蟹牛房挾多』の校訂... 146

3.3  市場通笑の黄表紙『蟹牛房挾多』の注釈... 152

3.4  Traduzione  e  commento... 167

3.5  画像  -­‐  Apparato  di  immagini... 181

        APPENDICE  :  現代の子供絵本... 193         GLOSSARIO... 195         BIBLIOGRAFIA... 200    

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INTRODUZIONE:  CHE  COS'È  OGGI  SARU  KANI  KASSEN  猿蟹合戦  

 

Entrando   in   una   qualsiasi   libreria   giapponese   e   recandosi   al   reparto   dedicato   alle   letture  per  l'infanzia,  ci  si  imbatte  sempre  in  una  folta  schiera  di  libri  che  ripropongono  i   cosiddetti  mukashibanashi  昔話,  ovvero  quelle  che  noi  denominiamo  "fiabe"  o  "favole".   Yanagita   Kunio   柳 田 国 男   (1875-­‐1962)   individua   nel   genere   quattro   specifiche   caratteristiche:   (上略)昔話の方には、始めからもっとはっきりとした意味があって、単に古い話または昔 の話というだけではないのである。子供が親から聴き、もしくは老人の記憶している話にも、 いろいろさまざまの種類がある。「昔話」はその中のたった一つ、すなわち形式としてその 話の初めの一句に、必ず昔とか昔々とか、あるいはもっとたわむれて「とんと昔」、「昔の 昔のその昔」等の語を用い[る。] [1](中略)話だから信じてはいけない、もしくはおも しろければそれでよろしいという心持があって、(中略)古く伝わった「信ずべき物語」と、 差別をしようとしたもののようである。現在の昔話においても、この表示法はかなり堅苦し く守られている。その形式は少なくとも三つあって、一つは(中略)東京とその付近では 「あったとさ」、「言ったとさ」とトサを添え、上方では多くトイナをつけて話す。東北の ムカシコは「あったづぉん」又は「あったちふ」という土地もある。(中略)中国九州では 普通には「あったげな」を用い[る。][2] (中略)第二の形式としては、固有名詞の故意 の省略がある[3]。これは年代を超越した昔という表現に伴うもので、やはりまた聴く人話 す人に、なんのかかわりもないことを明らかにした手段であったろうと思う。(中略)第三 の形式がある。(中略)最後に(中略)必ず形式の句があって、それが地方毎に一定してい る[4]。(中略)一番単純で数の多いのはこれでおしまい、または話はこれだけという意味 の短句である。(中略)もう一つ、今も残っている昔話の末の文句に、「めでたしめでたし」 というのがあって、これは文学にも多く採用せられている。1

[...]   Per   quello   che   riguarda   i   mukashibanashi,   vi   è   un   significato   molto   più   esplicito   fin   dal   principio:  non  si  tratta  semplicemente  di  vecchie  storie  o  di  racconti  del  passato.  Ci  sono  molte   svariate  categorie  di  storie  che  i  bambini  ascoltano  dai  genitori  e  che  gli  anziani  hanno  impresse   nella   loro   memoria.   I   "mukashibanashi"   rappresentano   soltanto   una   di   queste   categorie;   in   particolare,  per  convenzione  nell'incipit  della  storia  viene  sempre  usata  una  parola  che  può  essere   "tanto  tempo  fa"  (mukashi  昔)  o  "tanto  tanto  tempo  fa"  (mukashi-­mukashi  昔々),  o  ancora  in  tono   più   scherzoso   "troppo   tempo   fa"   (tonto  mukashi   とんと昔)   o   "in   un   tempo   prima   del   tempo   di  

1  YANAGITA  Kunio,  "Kōshō  bungei  shikō"  (Studio  sulla  storia  della  letteratura  orale),  Kōdansha,  Tōkyō,  1976,  

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tanto  tempo  fa"  (mukashi  no  mukashi  no  sono  mukashi  昔の昔のその昔).  [...]  Poichè  sono  racconti   (hanashi  話)  non  si  doveva  crederci,  v'era  la  sensazione  che  bastava  che  suscitassero  interesse  [...]   ed   erano   un   qualcosa   che   si   cercava   di   tenere   separato   dalle   "storie   a   cui   bisognava   credere"   tramandate   dall'antichità.   Questo   modo   di   esprimerlo   è   stato   conservato   alquanto   rigidamente   anche   nei   mukashibanashi   odierni.   Le   sue   forme   sono   almeno   tre;   la   prima   [...]   è   di   narrare   aggiungendo  a  fine  frase,  a  Tōkyō  e  nelle  zone  limitrofe,  to  sa  とさ  (atta  to  sa  あったとさ,  itta  to  

sa   言ったとさ),   mentre   nel   Kamigata   molti   usano   to   ina   といな.   Nei   mukashiko2  del   Tōhoku   ci  

sono  regioni  in  cui  si  aggiunge  atta  zuon  あったづぉん  o  atta-­chifu  あったちふ.  [...]  Nelle  zone  del   Chūgoku   e   del   Kyūshū   solitamente   si   usa   atta   gena   あったげな.   La   seconda   convenzione   è   l'abbreviazione  intenzionale  di  nomi  propri.  Questa  si  accompagna  all'espressione  di  "un  tempo   passato"  -­‐che  ha  superato  generazioni-­‐  e  ritengo  sia  un  mezzo  con  cui  si  specifica  che  si  tratta  di   eventi  che  non  hanno  nulla  a  che  fare  né  con  l'ascoltatore  né  con  il  narratore.  [...]  Vi  è  una  terza   convenzione.  [...]  Alla  fine  [...]  c'è  sempre  una  locuzione  prestabilita,  la  quale  è  standardizzata  per   ogni  regione.  [...]  Le  più  semplici  e  diffuse  sono  brevi  frasi  dal  significato  "questo  è  tutto"  (kore  de   oshimai  これでおしまい)  o  "la  storia  è  tutta  qui"  (hanashi  wa  kore  dake  話はこれだけ).  [...]  Ve  n'è   un'altra   rimasta   tutt'oggi   tra   le   espressioni   finali   dei   mukashibanashi,   "lunga   vita,   lunga   vita!"  

(medetashi-­medetashi  めでたしめでたし)  e  viene  utilizzata  diffusamente  anche  in  letteratura.  

Tornando  idealmente  agli  scaffali  dei  libri  per  bambini,  tra  i  mukashibanashi  è  sempre   presente  in  considerevole  numero  anche  la  storia  conosciuta  come  Saru  kani  kassen,  o   Saru  kani  gassen,   猿蟹合戦   ("La   battaglia   tra   la   scimmia   e   il   granchio").   Sebbene   sulle   copertine   dei   vari   volumi     si   possano   trovare   anche   titoli   diversi   da   questo   (vedi   appendice  1),  il  racconto  proposto  dalla  quasi  totalità  delle  opere  segue  a  grandi  linee  la   stessa  trama,  proposta  qui  di  seguito:

Un  granchio  ed  una  scimmia  stanno  passeggiando  insieme  quando,  a  un  certo  punto,  il   primo  trova  per  terra  un  onigiri3  e  la  seconda  un  seme  di  kaki.  Gelosa  del  ritrovamento  

dell'amico,  la  scimmia  impone  uno  scambio  al  granchio;  questi,  una  volta  tornato  a  casa,   pianta  subito  il  seme  e,  mentre  lo  irrora  d'acqua,  canta  la  seguente  filastrocca:  "Presto,   seme  di  kaki,  germoglia!  Se  non  lo  fai,  ti  tagliuzzo  con  le  mie  chele!"  (Hayaku  me  wo  dase,   kaki  no  tane.  Dasanu  to  hasami  de  chongiru  zo.   早く芽を出せ、柿の種。出さぬとはさ みでちょん切るぞ).   Il   seme,   spaventato,   subito   fa   uscire   una   piantina,   così   il   granchio   continua   a   cantare:   "Presto,   germoglio   di   kaki,   diventa   un   albero!   Se   non   lo   fai,   ti  

2  Altro  nominativo  per  i  mukashibanashi.  

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tagliuzzo   con   le   mie   chele!"   (Hayaku   ki   ni   nare,   kaki   no   me   yo.   Naranu   to   hasami   de   chongiru  zo.  早く木になれ  、柿の芽よ。ならぬとはさみでちょん切るぞ).  In  un  istante   dal  virgulto  cresce  un  alto  albero,  sicché  il  granchio  continua  con  la  sua  nenia:  "Presto,   albero,  da'  frutti!  Se  non  lo  fai,  ti  tagliuzzo  con  le  mie  chele!"  (Hayaku  mi  ga  nare,  kaki  no   ki  yo.  Naranu  to  hasami  de  chongiru  zo.   早く実がなれ   、柿の木よ。ならぬとはさみで ちょん切るぞ),   ed   ecco   che   sui   rami   dell'albero   fanno   comparsa   frutti   a   non   finire.   Il   granchio  gioisce  dell'impresa,  ma  non  sa  come  raccogliere  i  kaki,  così  chiede  aiuto  alla   scimmia   promettendole   di   dividere   il   raccolto.   Quella,   non   appena   arrampicatasi   sull'albero,   comincia   a   mangiare   senza   sosta   i   frutti   maturi   e   passa   al   granchio   solo   quelli   acerbi,   per   poi   lanciarglieli   contro   di   cattiveria   quando   questi   comincia   a   lamentarsi.  Per  le  ferite  subìte  il  granchio  muore,  ma  dalla  corazza  crepata  nascono  tanti   piccoli  granchi  che  giurano  di  vendicare  la  crudele  uccisione  del  genitore.  Chiamano  così   a  raccolta  il  mortaio,  l'ape,  la  castagna  e  l'escremento  di  mucca,  con  i  quali  progettano  un   piano.   Approfittando   di   un   momento   di   assenza,   si   recano   a   casa   della   scimmia:   la   castagna   si   nasconde   tra   la   cenere   del   focolare   al   centro   della   stanza,   l'ape   all'interno   della  tinozza  d'acqua,  l'escremento  di  mucca  vicino  all'entrata  e  il  mortaio  sopra  la  porta   dell'abitazione.  Quando  quella  rientra  a  casa,  si  siede  vicino  al  focolare  per  riscaldarsi,   ma  all'improvviso  balza  fuori  la  castagna  che  la  ustiona;  la  scimmia  corre  allora  verso  la   tinozza  d'acqua,  ma  quando  scopre  il  coperchio  si  ritrova  davanti  l'ape  con  il  pungiglione   sfoderato.   Spaventata,   cerca   via   di   fuga   fuori   di   casa,   ma   scivola   sull'escremento   e   il   mortaio   cade   di   peso   dall'alto   schiacciandola.   A   questo   punto,   sconfitta,   la   scimmia   chiede   pietà   scusandosi   del   torto   fatto   e   promettendo   di   non   far   più   del   male,   per   ricevere  infine  la  grazia  dai  granchi,  che  la  perdonano.  

Vi  sono  alcuni  fattori  che  cambiano  da  testo  a  testo,  quali  l'esclusione  del  personaggio   dell'escremento  dal  gruppo  degli  aiutanti  (o  la  sua  sostituzione  con  un'alga  konbu  昆布)   o   la   non   ben   definita   sorte   della   scimmia   (nella   metà   dei   casi   visionati   l'ultima   frase   spiega  semplicemente  che  la  scimmia  rimane  schiacciata  dal  mortaio).  In  un'unica  opera   si   aggiunge   alla   storia   un   dettaglio   piuttosto   significativo.   Si   tratta   del   libro   della   casa   editrice  POPLAR  PUBLISHING  CO.4  :  in  questa  versione  i  figli  del  granchio,  dopo  la  morte  

4  SAIGŌ  Takehiko  (testo),  FUKUDA  Shōsuke  (illustrazioni),  Saru  kanibanashi,  "Mukashi  mukahsi  ehon",  vol.  

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del  genitore,  si  recano  da  soli  verso  la  montagna  dove  vivono  le  scimmie  per  mettere  in   atto  la  loro  vendetta;  lungo  la  strada  si  uniscono  a  loro  l'ape,  il  mortaio,  la  castagna5  e  

l'escremento  di  mucca,  i  quali  diventano  loro  vassalli  dopo  aver  ognuno  ricevuto  in  dono   un  kibidango6.  Questo  è  lo  stesso  modo  con  cui  Momotarō  桃太郎,  nella  fiaba  omonima,  

recluta  la  scimmia,  il  cane  e  il  fagiano  prima  di  recarsi  all'Isola  Dei  Demoni  (oni  ga  shima   鬼ヶ島)  per  sconfiggerli  definitivamente  e  riportare  a  casa  il  tesoro  da  loro  rubato.  Non   si  tratta,  tuttavia,  né  di  un  errore  di  memoria,  né  di  un  pastiche  creato  appositamente   dall'autore   :   una   storia   dal   contenuto   simile   a   questo   si   ritrova,   infatti,   in   altri   testi   di   periodo  Tokugawa  (1600-­‐1868)  che  propongono  Saru  kani  kassen,  e  non  è  un  caso  che   traccia  di  questa  versione  sia  sopravvissuta  fino  a  tempi  recenti.  Dell'esistenza  di  testi  in   cui  la  trama  dei  due  mukashibanashi  viene  in  parte  a  coincidere  si  parlerà  in  dettaglio  al   capitolo  2.

Allargando   il   campo   d'indagine   dalle   versioni   che   circolano   tramite   i   libri   per   l'infanzia  a  quelle  tramandate  oralmente  (e  raccolte  nelle  antologie  di  fiabe),  scopriamo   che  a  poter  subire  variazioni  non  è  solo  la  seconda  parte  del  racconto.  Alla  voce「さるか にがっせん 猿蟹合戦」del  Nihon mukashibanashi jiten7 si legge:

動物葛藤譚の1つ。猿がカニから柿または餅を騙しとり,カニが栗,蜂,牛糞,臼などの援 助を得て,合戦の後,猿に仇を討つという形式が最も多く報告されている。しかし,この昔 話の後半部とほぼ同じ内容の合戦譚を有する昔話は,「猿と雉の寄合田」「猿と蟇の寄合田」 などと同型の昔話で雉やヒキに代わってカニとなっている昔話,「猿と蟹と柿」「蟹の仇討」 「餅争い」「雀の仇討」「牛方山姥」「爺と猿」などの多くにわたる。また,この昔話の全 半部とほぼ同じ内容を有する昔話は,合戦譚を持つ型と持たない型が併存している。分布状 況を考慮してその実態をみると,まず前者のうち餅が争いの原因となる昔話は青森・岩手・ 秋田,柿の場合が東北・関東・北陸・山陽・四国に分布し,後者のうち餅が争いの原因とな る昔話は東北・関東・関西・山陽・九州,柿の場合が本州・四国のほぼ全域となる。ここに 本昔話の基本形を設定することが,形式的にも内容からいっても困難な状況がある。 Uno   dei   racconti   di   conflitto   tra   animali.   La   forma   riportata   in   numero   maggiore   parla   di   una   scimmia  che  porta  via  con  l'inganno  un  kaki  -­‐o  un  mochi8-­‐  a  un  granchio;  questi  ottiene  l'aiuto  di   una  castagna,  un'ape,  un'escremento  di  mucca,  un  mortaio  e,  dopo  la  battaglia,  si  vendica  della  

5  Nello  specifico  si  tratta  di  un  igaguri  毬栗.  

6  Kibidango  黍団子  =  dolcetto  tradizionale  fatto  con  farina  di  miglio  mischiata  a  farina  di  riso.   7  INADA  Kōji  (hen),  Nihon  mukashibanashi  jiten,  Kōbundō,  Tōkyō,  1994  ,  pp.  388-­‐389.    

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scimmia.   Tuttavia,   i   mukashibanashi   che   hanno   un   racconto   di   battaglia   dal   contenuto   praticamente  uguale  a  quello  della  seconda  parte  di  questa  favola,  si  dividono  principalmente  in:   mukashibanashi  quali  "Il  campo  comune  della  scimmia  e  del  fagiano"  o  "Il  campo  comune  della   scimmia   e   del   rospo";  mukashibanashi   che   appartengono   allo   stesso   tipo   di   queste   ultime   e   al   posto  di  fagiani  e  rospi  hanno  un  granchio;  favole  come  ad  esempio  "La  scimmia,  il  granchio  e  il   kaki",  "La  vendetta  del  granchio",  "La  lotta  per  il  mochi",  "La  vendetta  del  passero",  "Il  bovaro  e   la  yamanba  [strega  delle  montagne]",  "Il  vecchio  e  la  scimmia".  Inoltre,  tra  nei  mukashibanashi   che  hanno  un  contenuto  quasi  identico  alla  prima  parte  di  questa  favola  coesistono  la  tipologia   con  annessa  la  storia  della  battaglia  e  quella  sprovvista  della  stessa.  Ragionando  sulla  diffusione   di   queste   ed   indagandone   la   reale   situazione,   innanzitutto,   tra   le   prime,   i   mukashibanashi   nei   quali  la  causa  della  disputa  è  un  mochi  sono  diffusi  nelle  regioni  di  Aomori,  Iwate  e  Akita,  mentre   quelle  in  cui  si  parla  di  un  kaki  si  trovano  nelle  zone  del  Tōhoku,  del  Kantō,  dello  Hokuriku,  del   San'yō  e  dello  Shikoku;  tra  le  seconde,  i  mukashibanashi  nelle  quali  la  causa  della  disputa  è  un   mochi  ci  sono  nelle  zone  del  Tōhoku,  del  Kansai,  del  San'yō  e  del  Kyūshū,  mentre  quelle  in  cui  si   parla  di  un  kaki  si  trovano  nell'isola  dello  Honshū  e  dello  Shikoku  -­‐ovvero  quasi  in  tutto  il  paese.   Di   fatto,   delineare   qui   una   forma   base   di   questo   mukashibanashi,   sia   da   un   punto   di   vista   strutturale  che  di  contenuto,  è  arduo.  

Il  fatto  che  al  giorno  d'oggi  la  favola  faccia  parte  del  bagaglio  culturale  comune  alla   maggior   parte   della   popolazione   nipponica   in   una   versione   pressoché   uniformata   è   anche  il  risultato  della  politica  di  unificazione  identitaria  attuata  con  enfasi  dal  governo   Shōwa  negli  anni  trenta:

By   means   of   centrally   unified   teaching   plans   and   curriculum,   regional   differences   were   to   be   leveled   out,   including   linguistic   and   dialectical   differences.   National   pride   and   a   pan-­‐Japanese   sense   of   community   were   instilled   in   children   by   means   of   stories   in   the   readers   for   primary   education  (Shogaku  kokngo  tokuhon)  [SKT].  [...]  

In  the  12  small  volumes  of  the  SKT  of  the  Showa  years  8  to  13  (1933-­‐38),  there  is  a  wide  variety   of  subject  areas.  The  curriculum  included  the  most  varied  topic  groups,  insofar  as  they  could  be   presented.[...]  

A   certain   group   of   reading   pieces   is   particularly   well   represented   in   booklets   1,   2   and   3:   fairytales.  In  book  1  one  finds  the  fairytales  Shitakiri  suzume,  Usagi  to  kame  and  Momotarō;  book   2   contains   four   fairy   tales:   Saru   to   kani,   Nezumi   no   yomeiri,   Kobutori,   Hanasaka   jiji;   book   3   contains:  Issunbōshi,  Kachikachi-­yama,  Nezumi  no  chie,  Kin  no  ono  and  Urashima  Tarō.  [...]  They   form  the  core  of  Japanese  “national  fairy  tales”  ,  stories  now  familiar  to  every  person  in  Japan.   Their  great  popularity  can  be  attributed  to  the  fact  that  they  were  included  in  these  elementary   school   readers.   In   this   way   they   gained   the   status   of   widely   disseminated   pan-­‐Japanese   fairy   tales.   Though   some   of   them   might   have   been   known   in   different   regions   in   different   variant  

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forms,  the  school  had  a  normative  effect  on  the  tales  and  thus  fulfilled  its  task  of  developing  a  

common  national  consciousness.9  

 

Tuttavia,   come   sottolinea   il   Nihon   mukashibanashi   jiten,     cercare   di   risalire   alla   versione   originaria   di   Saru   kani   kassen   è   alquanto   problematico.   Innanzitutto,   non   risulta   esserci   alcun   documento   scritto   che   testimoni   l'esistenza   stessa   del   mukashibanashi   fino   al   periodo   Tokugawa   e,   in   particolare,   prima   dell'inizio   del   diciottesimo   secolo,   quando   appaiono   le   prime   opere   letterarie   narranti   una   vicenda   simile  a  quella  sopra  descritta.  

In   passato   non   sono   stati   in   pochi   a   tentare   una   ricostruzione   dell'evoluzione   della   favola:  personaggi  storici  quali  Yanagita  Kunio,  insieme  a  studiosi  contemporanei  quali   Hanabe   Hideo,   hanno   cercato   di   rintracciare   l'origine   del   mukashibanashi   in   quanto   prodotto   della   narrazione   orale,   attraverso   l'analisi   comparativa   con   altre   favole   o   la   valorizzazione  di  taluni  aspetti  antropologici  presenti  all'interno  della  narrazione.  Altri   come,  ad  esempio,  Koike  Tōgorō  o  Sawai  Taizō  hanno,  invece,  preso  in  considerazione   Saru  kani  kassen  da  un  punto  di  vista  più  prettamente  letterario.  Il  fatto  che  i  risultati  di   questi   studi   portino   tutti   a   conclusioni   differenti   lascerebbe   presupporre   che   la   favola   non  abbia  un'unica  genesi,  ma  molteplici  e  tutte  ugualmente  possibili.  

Tradizione  orale  e  tradizione  scritta  sono  state  finora  mantenute  separate  e  studiate   isolatamente  su  binari  paralleli.  Questa  tesi  si  propone  di  associare  per  la  prima  volta    i   due  aspetti  nel  tentativo  di  far  chiarezza  su  una  loro  possibile  e  reciproca  influenza.  Si  è   cercato,   inoltre,   di   tentare   di   ricostruire   l'evoluzione   della   favola   in   periodo   pre-­‐ moderno,   utilizzando   fonti   temporalmente   precedenti   alle   raccolte   di   mukashibanashi   redatte  a  partire  dal  periodo  Meiji  dai  primi  antropologi  giapponesi.  Nel  primo  capitolo   si  presenta,  dunque,  una  panoramica  sugli  studi  che  già  hanno  affrontato  l'argomento,   alla  quale  si  combina,  nel  secondo  capitolo,  un  lavoro  di  confronto  delle  opere  prodotte   in  periodo  Tokugawa  che  trattino  anche  solo  in  parte  Saru  kani  kassen.  Durante  questo   lavoro   di   ricerca   si   tenterà   di   individuare   quelli   che   sono   gli   elementi   della   favola   che   rimangono   costanti   e   le   variabili   che   li   accompagnano;   ci   si   chiederà,   quindi,   la   motivazione  di  questi  cambiamenti  e  si  cercherà  di  capire  se  la  storia  ha  seguito  o  meno  

9

Klaus  ANTONI,  "Momotarō  (The  Peach  Boy)  and  the  Spirit  of  Japan:  Concerning  the  Function  of  a  Fairy  

Tale  in  Japanese  Nationalism  of  the  Early  Shōwa  Age",  Asian  folklore  studies,  50,  1,  1991,  pp.  160-­‐161.  

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un   processo   evolutivo   lineare   che   ha   portato   a   una   graduale   trasformazione   fino   ad   assumere   la   forma   attualmente   più   diffusa.   Nel   terzo   capitolo,   invece,   verranno   presentati   la   traslitterazione,   la   traduzione   e   il   commento   del   kibyōshi   黄表紙  Kani  ga   gobō  hasanda  『蟹牛房挾多』  ("Il  granchio  ha  pinzato  una  bardana").  L'opera  non  solo   viene  portata  ad  esempio  di  come  il  mukashibanashi  sia  stato  ripreso  e  adattato10  nella  

seconda   metà   del   XVIII   secolo,   ma   si   presenta   anche   come   un'utile   fonte   per   meglio   comprendere  la  quotidianità  e  le  mode  del  tempo.

10  "Adaptation  can  be  a  transpositional  practise,  casting  a  specific  genre  into  another  generic  mode,  an  act  

of  re-­‐vision  in  itself.  It  can  parallel  editorial  practice  in  some  respects,  indulging  in  the  exercise  of   trimming  and  pruning;  yet  it  can  also  be  an  amplificatory  procedure  engaged  in  addition,  expansion,  

accretion,  and  interpolation."  [Julie  SANDERS,  Adaptation  and  appropriation,  London/New  York,  Routledge,  

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CAPITOLO  1  :  GLI  STUDI  PRECEDENTI  

 

Di  seguito  si  presenta  una  panoramica  quanto  più  possibile  completa  degli  studi  già   effettuati  su  Saru  kani  kassen.  Con  l'unica  eccezione  di  Sawai  Taizō  (come  si  vedrà  nella   sezione   1.10),   la   totalità   degli   studiosi   che   si   sono   occupati   di   questa   favola   la   hanno   presa  in  esame  nella  sua  forma  orale  così  come  veniva  narrata  ai  loro  tempi  o  come  era   stata   trascritta   nelle   varie   raccolte   di   mukashibanashi.   Nonostante   alcuni,   nella   loro   indagine,  si  siano  serviti  anche  di  opere  letterarie  per  comprovare  i  loro  ragionamenti,   nessuno  di  loro  si  è  soffermato  ad  analizzare  con  rigore  un  numero  consistente  di  testi   scritti,   né   si   è   interrogato   sull'evoluzione   della   favola   sui   manoscritti   e   sulle   opere   a   stampa.   Si   sono,   infatti,   più   interessati   a   Saru   kani   kassen   in   quanto   'masterplot'1,  

ritenendo  sufficiente  basare  le  loro  ricerche   principalmente  su  una  delle  due  forme  in   cui  la  favole  è  stata  tramandata  nel  tempo,  quella  orale.  

Le  domande  che  si  sono  posti  nell'arco  della  propria  ricerca,  infatti,  sono  state  altre,   quali  ad  esempio:

• Qual  è  il  luogo  di  origine  del  mukashibanashi;  

• Qual  è  il  periodo  storico  in  cui  esso  è  andato  formandosi;  

• Con   quali   altri   mukashibanashi   giapponesi   esso   condivida   intere   parti   o   singoli   elementi;  

• Quali  sono  i  punti  di  contatto  con  storie  simili  narrate  in  altre  parti  del  mondo;   • Quali  sono  gli  aspetti  antropologici  o  naturalistici  presenti  all'interno  della  storia.    

 

1  "Masterplots:  Recurrent  skeletal  stories,  belonging  to  cultures  and  individuals  that  play  a  powerful  role  

in  questions  of  identity,  values,  and  the  understanding  of  life.  [...]  As  masterplots,  by  their  nature,  recur  in   many  different  narrative  versions,  it  is  at  least  a  technical  mistake  to  employ  the  common  term  "master   narrative"   for   this   concept." [H.   Porter   ABBOTT,   The   Cambridge   introduction   to   narrative,   Cambridge,   Cambridge  University  Press,  2002,  p.  236]

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1.1  TAKIZAWA  BAKIN  滝沢馬琴  (1767-­1848)  

Il  primo,  in  ordine  cronologico,  ad  interrogarsi  su  Saru  kani  kassen  è  stato  Takizawa   Bakin,  scrittore  inizialmente  di  kibyōshi  sotto  la  guida  di  Santō  Kyōden  山東京伝  (1761-­‐ 1816),  ma  famoso  soprattutto  per  gli  yomihon  読本  composti  a  partire  dagli  ultimi  anni   del  diciottesimo  secolo.  Bakin,  il  quale  provava  un  forte  interesse  per  i  mukashibanashi,   dedicò  ad  essi  un  intero  volume,  il  quarto,  del  suo  zuihitsu  随筆  Enseki  Zasshi2  燕石雑志  

(1811).  Il  quarto  capitolo,  quello  dedicato  a  Saru  kani  kassen,  inizia  con  la  versione  che   l'autore  richiama  alla  memoria  dalla  sua  personale  esperienza.  Le  differenze  rispetto  alla   trama   proposta   in   introduzione   di   tesi   e   radicatasi   ormai   nell'immaginario   collettivo,   possono  essere  così  schematizzate:  

-­‐   all'inizio   della   favola,   viene   specificato   che   il   granchio   e   la   scimmia   stanno   gironzolando  ai  piedi  della  montagna;  

-­‐   i   figli   del   granchio   vittima   delle   vessazioni   della   scimmia   non   nascono   dal   guscio   crepato   (non   viene   specificato   nemmeno   che   questi   muore,   si   dice   semplicemente   che   "non   riuscì   più   ad   alzarsi"   e   okizu   得起きず),   ma   sono   già   presenti   all'interno   della   narrazione,   e   a   giurare   vendetta   sono   i   parenti   tutti   del   granchio,   i   quali   vogliono   scatenare  una  battaglia  con  il  popolo  delle  scimmie;  

-­‐  per  mettere  in  atto  il  piano  di  vendetta,  invitano  con  l'inganno  il  re  delle  scimmie   nella  loro  tana  mostrandosi  intenzionati  a  stipulare  la  pace  ed  evitare  così  la  guerra  tra  i   due  popoli;  

-­‐  gli  aiutanti  dei  granchi  sono:  un  uovo  (che  brucia  la  scimmia  sul  braccio,  al  posto  di   una   castagna),   un'ape   (nascosta   nel   barile   dell'acqua),   un'alga   arame3  荒布   (invece  

dell'escremento   di   mucca),   un   pestello   (il   quale   cade   dagli   scaffali   della   cucina)   e   un   mortaio;  

2 SANTŌ  Kyōden  Kottōshū,  KYOKUTEI  Bakin  Enseki  zasshi,  RYŪTEI  Tanehiko  Yōshabako,  Yūhōdō  bunko,  vol.3,  

Tōkyō,  Yūhōdōshoten,  1915,  pp.  470-­‐486.    

3  Eisenia  bicyclis,  tipo  di  alga  che  cresce  lungo  le  coste  giapponesi.  Veniva  usata,  oltre  che  come  ingrediente  

in  cucina,  anche  come  detergente  per  il  bucato  e  per  questo  in  periodo  Tokugawa  era  presente  in  qualsiasi   casa.  

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-­‐  alla  fine  i  granchi  uccidono  la  scimmia  tagliandone  la  testa.  

Bakin,   di   seguito,   prende   in   esame   separatamente   alcuni   elementi   della   favola   e   ne   ricerca  le  fonti  in  testi  cinesi,  portando  ad  esempio  numerosi  passaggi  di  racconti  che  vi   assomigliano  e  che  secondo  lui  dimostrerebbero  come  la  favola  sia  nata  da  un  reimpasto   di   tutti   questi   frammenti,   adattati   al   contesto   e   al   pubblico   giapponese.   Di   seguito   si   propone  una  cernita  di  questi  passaggi.  

In   primo   luogo,   Bakin   analizza   la   combinazione   dei   due   animali   protagonisti   della   discordia,   per   poi,   più   avanti   nel   saggio,   passare   anche   ai   personaggi   inclusi   negli   aiutanti.   Esempi   di   granchi   (in   particolare   lo   yūbō   蝤蛑,   una   specie   dalle   grandi   dimensioni)  che  combattono  contro  tigri  si  ritrovano  nel  Zoku  hakubutsushi4  続博物志  e  

nello  Seikan  kairoku5  晴川蟹録  (da  qui  in  poi  abbreviato  Kairoku),  mentre  nel  Kōiki6  廣

異記  si  parla  della  lotta  tra  un  granchio  e  il  dio  della  montagna  dalla  forma  di  serpente,  il   quale   in   conclusione   muore   decapitato   dal   crostaceo.   Similarmente,   nello   Zuda   monogatari7  頭陀物語  si  ritrova  un  episodio  di  un  granchio  che  combatte  un  lombrico,  

dove  si  specifica  anche  che  il  secondo  mangia  gli  uomini  e  il  primo,  uccidendolo,  assurge   a  salvatore  dell'umanità.  Secondo  Bakin,  la  tigre  delle  storie  cinesi  è  stata  trasformata  in   scimmia  per  il  fatto  che  il  felino  non  è  presente  sul  territorio  giapponese.    

A  conferma  del  legame  che  ci  sarebbe  tra  i  crostacei  e  le  scimmie  e  del  sentimento  di   rancore   dei   primi   nei   riguardi   delle   seconde,   vengono   quindi   portati   ad   esempio   vari   estratti  da  testi  cinesi  citati  nel  Kairoku.  Innanzitutto,  nello  Shoshō8  書蕉  di  Mei  Gong9  眉

広   si   parla   di   un   uomo   di   piccola   stazza   che   vive   sulle   montagne   di   nome   di   Sansan                   山犭參    ,  il  quale  si  nutre  di  granchi.  Bakin  si  chiede  se  il  sansan  non  sia  un  differente  tipo  di  

4  Seguito   e   ampliamento   dello   Hakubutsushi     博物志   ,   raccolta   di   informazioni   su   animali   e   piante   rare,  

credenze   di   popoli   stranieri   e   storie   fantastiche   attribuito   al   poeta   Zhang   Hua   張華   (232-­‐300).   Lo   Zoku   hakubutsushi  è  stato  invece  scritto  da  Li  Shi  李石  (1108-­‐1181)  dei  Song.    

5  Qingchuan  xie  lu,  compendio  in  4  volumi  su  caratteristiche,  fatti,  brani  letterari  e  poesie  sui  granchi  del  

XVII/XVIII  secolo  scritto  da  Sun  Zhilu(ji)  孫之騄(輯)  dei  Qing.  

6  Guang   yi   ji,   raccolta   originariamente   in   12   volumi   di   storie   fantastiche   del   regno   dei   Tang   (618-­‐907)  

redatto  da  Dai  Fu  戴孚  nel  757,  per  poi  essere  ampliato  dai  figli  alla  sua  morte.  

7  Altro  nome  del  Bashōō  zudamonogatari  芭蕉翁頭陀物語,  scritto  da  Kyūroan  Ryōtai  吸露庵涼袋  (Takebe  

Ayatari  建部綾足)  nel  1751,  presenta  aneddoti  delle  vite  di  poeti  di  haikai  俳諧.  

8  Shu  jiao,  anche  noto  col  titolo  Bi  ji  筆記.  

9  Mei  Gong  è  uno  degli  epiteti  di  Jiru  Chen  陳繼儒  (1558-­‐1639).  

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santo  山都,  un  babbuino  anziano  ,  che  secondo  quanto  riferito  nel  Jutsuiki10  述異記  ruba  

i  granchi  strappando  le  trappole  preparate  dai  pescatori;  a  ulteriore  riprova  di  questo,   nello   I'en11  異苑   si   parla   di   un   animale   denominato   sansei   山精,   simile   alle   persone,  

mangiatore  di  granchi  di  fiume.    

A  spiegare  la  moltitudine  di  granchi  che  decidono  di  attaccare  la  scimmia  sarebbe,  poi,   un   aneddoto   del   Shukuen   zakki12  菽園雑記   (citato   nel   Kairoku),   che   narra   di   come   un  

pescatore   che   si   alimentava   quotidianamente   di   crostacei   pescati   agli   argini   del   fiume   smise  definitivamente  la  sua  attività  dopo  essersi  commosso,  un  giorno,  nel  vedere  due   granchi  aiutarne  a  scappare  un  terzo  ormai  sprovvisto  di  tutte  e  otto  le  zampe.    

Altro   esempio   di   granchi   che   si   radunano   e   combattono   insieme   si   trova   anche   in   Giappone,   nel   caso   della   leggenda   sulla   fondazione   del   tempio   Kanimanji   (nominato   nello   Enseki:   Kanimandera)   蟹満寺   che   si   trova   a   Kizugawa,   nella   prefettura   di   Kyōto.   Raccontata,  ad  esempio,  nel  Genkōshakusho13  元享釋書,  la  storia  narra  di  come  migliaia  

di   granchi   di   piccole   e   grandi   dimensioni   abbiano   combattuto   e   sconfitto   un   serpente   che  rivendicava  il  possesso  della  figlia  di  un  uomo,  promessagli  in  sposa  da  quest'ultimo   affinchè  lasciasse  vivere  un  rospo  che  stava  per  divorare.  Una  volta  seppelliti  i  resti  del   serpente  e  dei  granchi  sacrificatisi  per  la  propria  figlia,  i  genitori  vi  costruirono  sopra  il   tempio  buddhista  dal  nome  sopra  indicato.  

Bakin   ricorda,   inoltre,   le   leggende   per   cui   gli   spiriti   rancorosi   di   guerrieri   morti   in   battaglia   si   sarebbero   impressi   sulla   corazza   del   granchio   Heikeopsis   japonica,   denominato   a   seconda   dei   luoghi   di   provenienza   delle   leggende   heikegani14  平家蟹,  

takebun   kani15  武文蟹,   shimamuragani16  嶋村蟹.   Tutti   questi   esempi   chiarirebbero  

10  Shu   yi   ji,   vi   sono   due   testi   con   lo   stesso   titolo,   i   quali   raccolgono   miti,   leggende,   storie   di   medicine  

miracolose  e  altro  ancora:  uno  redatto  da  Zu  Chongzhi  祖冲之  dei  Qi  meridionali  (479-­‐502)  in  10  volumi  e   l'altro  da  Ren  Fang  任昉  dei  Liang  (502-­‐557)  in  due  volumi.  

11  Yi  yuan,  redatto  da  Jingshu  Liu  劉敬叔  dei  Song  (420-­‐479),  tratta  in  10  volumi  di  dèi  e  spiriti.     12  Shu  yuan  za  ji,  testo  dello  studioso  Rong  Lu  陸容  (1436-­‐1494)  dei  Ming  (1368-­‐1644).  

13  Testo  storico  sul  buddhismo  di  fine  periodo  Kamakura  (1185-­‐1333)  in  30  volumi,  scritto  dal  monaco  

della  scuola  Rinzai  Kokan  Shiren  虎関師錬  (1278-­‐1347).  

14  Nominativo  più  comune  per  questo  granchio,  deriva  dalla  famiglia  Taira,  sconfitta  nella  battaglia  di  Dan  

no  Ura  (1185)  dai  Genji,  i  cui  membri  morirono  tutti  annegati.

15  Altro   nome   dello   heikegani.   Il   nome   deriva   da   quello   del   guerriero   Hata   no   Takebun   秦武文,   morto  

affogato  durante  la  guerra  Genkō  (1331).  

16  Altro  nome  dello  heikegani.  Il  nome  deriva  da  quello  di  un  guerriero  di  periodo  Sengoku  (1467-­‐1573)  

che   mentre   il   suo   padrone   Hosokawa   Takakuni   細川高国 (1484-­‐1531)   veniva   ucciso,   sconfitto   in   battaglia,  si  era  gettato  in  mare  con  combattendo  con  due  nemici,  morendo  annegato.  

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perchè  i  granchi  della  favola  in  questione  abbiano  il  forte  desiderio  di  vendicarsi  di  un   torto  subìto.  

L'accoppiata   ape/scimmia   deriverebbe,   invece,   dalla   lettura   on   dei   due   caratteri,   rispettivamente   'hō'   (ほう   蜂)   e   'kō'   (こう   猴),   che   ricordano   la   parola   hōkō   封侯,   dal   significato   di   daimyō,   mentre   quella   pestello( 杵 )/mortaio( 臼 )   dal   nome   di   un   discendente  (kōson  公孫)  della  casata  dei  Chō17  趙  Shokyū  杵臼  (?  -­‐  597  a.C.),  il  quale,  

secondo   quanto   riporta   lo   Shiki18  史記,   aiutò   insieme   a   Tei'ei   程嬰   a   vendicare   l'unico  

erede  rimasto  in  vita  dello  statista  Chōsaku  趙朔  (?  -­‐  598  a.C.),  dopo  la  sua  morte  e  la   temporanea  caduta  della  casata.  

Il  fatto  che  il  granchio  conceda  il  riso  trovato  per  terra  alla  scimmia,  ovvero  il  motivo   scatenante   della   discordia   tra   i   due,   sarebbe   da   ricondurre   a   un   episodio   inserito   nel   Chōshōshū19  張敞集,  dove  si  parla  dell'uomo  chiamato  Shō  il  quale  decise  di  condividere  

la   polpa   di   granchio   sotto   sale   (kani   no   hishio   蟹の醤)   ricevuta   in   dono   con   le   altre   persone  rispettose  dell'operato  degli  anziani  (sanrō  no  okonai  三老の行20).    

Il  titolo  Saru  kani  kassen  deriverebbe,  infine,  dal  termine  utilizzato  nella  cultura  Wú21  

(go  呉)  kakōkairan  蝦荒蟹乱,  che  indicava  l'andare  in  guerra  con  un'armatura  coriacea   (come  un  carapace  di  granchio)  e  un'arma  affilata  e  tagliente  (come  le  sue  chele).  

Bakin   si   concentra   sui   singoli   elementi   compositivi   della   favola   svolgendo   un   dettagliato  lavoro  di  confronto  con  altri  aneddoti  e  di  ricerca  di  possibili  fonti  scritte,  ma   senza  prendere  in  considerazione  le  numerosi  varianti  che  già  si  erano  espresse  in  opere   a  lui  contemporanee  e  senza  cercare  di  trarre  conclusioni  globali  che  possano  far  luce   sullo  sviluppo  complessivo  della  favola  nel  tempo.  Resta  da  chiedersi  se  il  suo  scopo  non   si  limitasse  al  semplice  divertissement  letterario  o  se  Bakin  considerasse  la  sua  analisi   punto  di  partenza  per  uno  studio  successivo,  se  non  un  già  esauriente  risultato.  

   

17  Risiedente  nel  regno  di  Jin  晋.  

18  Shi  ji,  testo  sulla  storia  cinese  in  130  volumi,  compilato  da  Shiba  Sen  司馬遷  (ca  145  a.C.  -­‐  ca  86  a.C.)  

degli  Han  (206  a.C.-­‐220  d.C.).  

19  Non    è  stato  possibile  rintracciare  notizie  riguardo  a  questo  testo.  

20  Anziani  suddivisi  in  tre  fasce  d'età:  sopra  i  100  anni,  sopra  gli  80  anni,  sopra  i  60  anni.  Secondo  un'altra  

teoria  gli  anni  sarebbero  da  suddividersi  in  100,  90  e  80.  

21  Regno  cinese  nel  periodo  delle  primavere  e  degli  autunni  (770  a.C.  -­‐  403  a.C.)  che  si  trovava  a  valle  del  

(21)

1.2  SANTŌ  KYŌDEN  

Famoso  scrittore  di  gesaku  戯作  di  tardo  periodo  Tokugawa,  in  un  primo  momento  si   dedica  a  kibyōshi  e  sharebon22  洒落本  per  poi  spostarsi,  dopo  i  problemi  con  la  censura  

avuti   a   causa   dei   secondi,   a   yomihon   e   saggi.   Incluso   in   quest'ultima   categoria   è   il   Kottōshū23  骨董集,   scritto   nel   1813   e   pubblicato   nei   due   anni   successivi   (il   primo   e  

secondo  volume  nel  1814  e  il  terzo  nel  1815).    

Secondo  Kyōden,  i  mukashibanashi  deriverebbero  in  larga  parte  da  racconti  buddhisti   (bussetsu  仏説),  ma  anche  da  monogatari  storici  (kokushi  monogatari  bumi  国史物語ぶ み)   o   da   aneddoti   cinesi   (kando  no  koji   漢土の故事),   e   in   particolare   Saru  kani  kassen   sarebbe   la   versione   più   estesa   di   una   storia   narrata   nel   Konpon  setsu  issai  ubu  binaya  

zōji24  根本説一切有部毘奈耶雑事,   contenuto   a   sua   volta   nel   ventiquattresimo   volume  

del  Giso  rikujō25  義楚六帖:

有(あり)二隠(いん)ー人(じん)一。有(ありて)二果樹(くわじゆつの)下(もとに)一座(ざす)。被(ら れて)二(さ)ー猴(るに)擲(なげ)一レ果(くわを)(クダモノ)。破(やぶる)レ額(ひたひを)。忍(しのび て)レ之(これを)不(ず)レ報(むくは)。後(のち)有(あり)二獵(れう)(カリ)ー者(しや)(ウト)一。與 (と)レ仙人為(たり)レ友(とも)。来(きたつて)在(あつて)二樹(じゆ)ー下(かに)一坐(ざす)。擲(な ぐる)如(ことごとし)レ前(さきの)。獵(れう)ー者(しや)怒(いかつて)射(いて)レ之(これを)致(い たす)レ死(しを)。佛(ほとけと)與(と)レ天(てん)ー受(じゆ)26

Un   eremita   era   seduto   sotto   un   albero   quando   [all'improvviso]   gli   vengono   lanciati   contro   dei   frutti  da  una  scimmia  [che  si  trovava  sui  rami],  ma  anche  se  viene  ferito  alla  fronte  lui  sopporta  [il   dolore]   senza   vendicarsi.   Tempo   dopo   l'eremita   insieme   ad   un   cacciatore   suo   amico   si   siedono   sotto   lo   stesso   albero;   come   la   volta   precedente,   vengono   lanciati   loro   contro   dei   frutti,   ma   il  

22  Tipo  di  kusazōshi  pubblicati  inizialmente  nella  zona  del  Kamigata  a  partire  dalla  seconda  metà  dell'era  

Kyōhō  (1716-­‐1736)  e,  in  seguito,  anche  a  Edo.  Sono  storie  ambientate  nei  quartieri  di  piacere  e  anche  le   storie  narratevi  erano  incentrate  in  quel  mondo.  

23  Kokumintosho   kabushikikaisha   (hen),   Nihon   zuihitsu   shū   (Raccolta   di   zuihitsu   giapponesi),   vol.   13,  

Tōkyō,  Kokumintosho,  1928,  pp.  99-­‐100.  

24  Testo   tramandato   della   scuola   buddhista   indiana   Setsu   issai   ubu     (nata   a   300   anni   dalla   morte   del  

Buddha  storico)  tradotto  in  cinese  dal  monaco  Tang  Gijō  義淨  (635-­‐713).  

25  Shishi   liutie,   sorta   di   enciclopedia   buddhista   redatta   dal   monaco   Shi   Yichu   釋義楚   in   24   volumi  

(terminati  nel  954)  che  raccoglie  non  solo  precetti,  ma  anche  estratti  di  testi  precedenti.  

26  Kokumintosho  kabushikikaisha,  Nihon  zuihitsu...,  op.  cit.,  p.100.

(22)

cacciatore  al  comportamento  della  scimmia  si  adira  e  la  uccide  scoccando  una  freccia.  La  scimmia,   così,  riuscì  a  raggiungere  il  paradiso  insieme  a  Buddha.    

Kyōden  fa  un  lavoro  opposto  e  complementare  rispetto  a  quello  di  Bakin,  in  quanto  è   andato   a   cercare   quella   che   ritiene   essere   l'ossatura,   la   struttura   centrale   della   favola,   alla  quale  sarebbero  poi  stati  aggiunti  vari  dettagli  (edaha  枝葉)  che  potrebbero  essere   quelli  individuati  da  Bakin  e  riassunti  nella  sezione  precedente.

1.3  KOIKE  TŌGORŌ  小池藤五郎  (1895-­1982)

Koike   Tōgorō,   padre   di   Koike   Masatane   e   professore   dell'Università   Imperiale   di   Tōkyō,  scrisse  un  articolo  su  Saru  kani  kassen  nel  193727,  prendendo  come  pretesto  una  

polemica  accesasi  qualche  anno  prima  a  partire  da  un  articolo  comparso  sullo  Yomiuri   Shinbun   e   alimentata   da   alcuni   intellettuali   dell'epoca.   In   quel   pezzo,   uscito   il   primo   settembre  del  1933,  si  parlava  dei  cambiamenti  apportati  alla  storia  Saru  to  kani  サルト カニ  nel  nuovo  libro  di  letture  per  le  scuole  elementari  (Shōgaku  kokugo  tokuhon  小学国 語読本)   che   sarebbe   dovuto   entrare   in   uso   in   tutto   il   paese   a   partire   dal   mese   successivo.   Si   intendeva,   con   questa   nuova   ristampa,   rimuovere   qualsiasi   elemento   ritenuto  inadatto  alla  sensibilità  dei  giovani  scolari  e  inappropriato  alla  loro  educazione.   Koike  in  apertura  di  saggio  riporta  l'articolo  del  quotidiano  nel  quale  si  legge:

改正の主な點は、舊讀本に、「ハヤクメヲダセ、カキノタネ。ダサヌトハサミデハサミキ ル。」とあるを、「早クメヲ出セ、   早クメヲ出セ。」と改めて、脅迫がましい態度を除いた 事が第一である。次に前には猿が青い柿を投げつけて叩き殺す處を、新讀本ではちょっと怪 我した程度にとどめた。子蟹が蜂や臼などの友達の助けによって、親の仇を討つところを、 今度は、「サルハ、トウトウ、ジブンガワルカッタトアヤマリマシタ。カニハ、ユルシテヤ リマシタ。」と改めて残虐味を一掃した。 27

Riferimenti

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