Corso di Laurea magistrale (ordinamento ex
D.M. 270/2004)
in Lingue e culture dell'Asia Orientale
Tesi di Laurea
Saru kani kassen:
riscritture e reinterpretazioni
di un mukashibanashi
in periodo Tokugawa
Relatore
Ch. Prof. Bonaventura Ruperti
Correlatore
Ch. Prof.ssa Luisa Bienati
Laureando
Elena Follador
Matricola 815685
Anno Accademico
2012 / 2013
要旨 今日語られている『猿蟹合戦』は次のような内容で知られている。 むかしむかし、あるところに蟹と猿がいた。ある日、二匹が山へ遊びに行った。そこで、 蟹はおにぎりを、猿は柿の種を見つけて拾った。猿は柿の種とおにぎりをむりやり交換さ せてから帰ったが、蟹は真面目に種を蒔き、水をやり育てた。木が大きくなり、実も多く 生った時、蟹が枝まで登ろうとしたが、出来ずにあきらめたところ、猿がやって来た。猿 は実をもいであげると嘘をつき、木に登り熟した柿を食べながら、蟹には渋いものだけを 与えた。蟹がそれについて文句を言い出すと、猿は怒り、柿を激しく投げつけ、甲羅を破 り蟹を殺してしまう。しかし、みじんに砕けた甲羅からは小さい子蟹が生まれ、親の仇討 を誓う。友達の臼・蜂・栗・牛の糞と共に計略を企て、猿が留守の時に、家に忍び込み、 皆がそれぞれの場所に隠れる。そこへ猿が帰り、暖まろうと囲炉裏の傍に座ったところ、 灰の下に身を潜めていた栗が飛び出し、火傷をさせる。その痛みを和らげるために水桶に 近づくと、そこから蜂(又は蟹)が出てきて猿を脅かす。怖がって家の外へ出ようとする 猿は、入り口の近くで待っていた牛の糞に滑ってしまい、屋根の上から落ちた臼に潰され る。 猿が死んだかが分からないままで終わるバージョンもあるし、謝るので蟹がそれを勘弁 し命を助けるといったバージョンもある。今の子供絵本にはこのように二つの話があるの は、江戸時代の大衆文学の流れのためであると言えよう。実際には、江戸時代の作品には 結末のみならず、人物の数や助っ人の種類など、話の筋の様々な面が異なっていたのであ る。この論文では、 猿蟹合戦に関してすでに行われた研究に伴い、その最も古いとされ ている作品の時代、十八世紀の始まりにまで溯り、この昔話を分析したいと思う。 第一章では、十九世紀より近年までの研究がまとめられている。猿蟹合戦に興味を持 ち、初めてそれに関して調べた学者は、戯作や読本の作家として有名な滝沢馬琴と、その 弟子の山東京伝であった。二人とも話の由来が大陸にあると思っており、中国とインドの 古典文学に猿蟹合戦の根と「枝葉」を探ってみた。
その後、再び昔話を研究しようとした学者が現れるまで百年ほど待たなければならな い。小池藤五郎氏は、一九三〇年代に小学国語読本をめぐって発生した論争をきっかけに、 猿蟹合戦の起源を改めようと思い、それを日本文学の中に探るべきであると判断した。 元々は室町時代に成立した、蟹の眷属(親族)と猿の眷属との戦争物であったらしく、お 伽草子の一つのジャンルである異類合戦に基づいていると述べている。助っ人が家の中に 隠れ、順番に猿を攻める箇所が後から加えられ、徐々に戦争の話より仇討の話になってき たと論じている。 数年後、島津久基氏が日本だけではなく,外国にも猿蟹合戦の前半と後半に似た独立の 昔話があるということに気がつく。もとよりの合戦型の話が少しずつ仇討型になり、曽我 兄弟の伝説の影響を受け、子蟹の人物も登場するようになったという。島津氏は初めて口 承文学で伝えられた話も取り扱い、中国にとどまらず、韓国やモンゴル、インドネシアな どといった様々な国の昔話を日本の昔話と比べてみたのである。 その次に論文を出した柳田国男氏は、二十世紀の始まり頃、日本中で語られていた昔 話を中心に、猿蟹合戦の最も古い筋を復元しようとした。柳田氏は、猿と蛙が一緒に餅を 搗くが、猿の我がままな行動で餅の入っていた臼が山より転び落ち、結局蛙がそれを全て 食べてしまうというのが、東北に数多く残った話であり、本来の内容であったと述べてい る。 仇討ちの部分の方は、自立した昔話として中国などに見つけられるが、それは恐ら く後から渡来され、腕利きの座頭により猿と蛙(のちに蟹)の話に面白く付けられたのか もしれないと述べている。 柳田氏の行った日本国内の昔話に関する調査を踏まえつつ、今川恵美子氏は自身でも 猿蟹合戦の例を集め、それにいくつかの江戸時代の作品を平行させ、筋の展開を明らかに することを試みた。その結果として、島津氏の推測したように、合戦型より個人の仇討型 へ変化し、最終的に親孝行仇討になったと論じている。 1980年代に入ると、関敬吾氏は、島津氏と柳田氏の研究と共に、フィンランド人 の民俗学者、アンティ・アアルネとドイツ人のフリッツ・ルムプの研究を付加し、猿蟹合 戦を中心にアジア中の昔話を考察した。数多くの例を取りつつ、アジアの話がどこで発生 したものかは分かり得ないが、猿蟹合戦が二つの昔話の総合によって成立した日本のみの 昔話であると説いている。 『日本昔話事典』の編集者でもある稲田浩二氏も、前半の「動物葛藤」と後半の「仇 討ち型」を別々で分析し、それぞれが日本列島並びに世界の口承文学の中にどれほど広が
っているかを詳しく調べた。特に、後半か又は後半に似た話が欧米にも存在するモチーフ であり、稲田氏は原初の思想アニミズムに基づいていると述べている。採集狩猟時代の人 類が巨人動物を狩っていた時、成員が各人各様の分担をもって参加してきた様相をこの話 に含めていたという。 一方、斧原孝守氏は、猿と蟹の一つだけの話を考察し、結末に蟹がなぜ螯に毛がある のかを説明して、「なぜ話」のように終わるものが、アジア諸国においてどれほど伝播し ているかを調査した。 初めて江戸時代の猿蟹合戦に関する作品を全て集められたのは、沢井耐三氏である。 沢井氏の目的は、今日知られている「猿蟹」の話と少し異なった形が例外ではなく、西日 本に「猿ヶ島敵討」という類型であったのを論証することである。その類型には、おにぎ りと柿の種の交換がなく、蟹が猿にいじめられてから、敵討ちに出かけ、猿が島へ向かう 途中で栗・挽臼・鋏などに黍団子を与えて家来にし、最後に計略による順を追った攻撃で はなく、普通の戦いで猿を退治する。 最も新しく出された花部英雄氏の論文では、桃太郎系猿蟹合戦が取り扱われる。それ が北より来た怪物退治譚と、南より来た食物争い譚の二つの気流が、日本において会った 時に産まれた昔話であり、その後その話より桃太郎が産まれたという。 第二章では、猿蟹合戦の徳川時代の作品が大きく四つの節に分かれており、分析され ている。最初の節には最も古いとされている宝永年間(一七〇四 一七一一)の赤本、又 は正徳年間(一七一一 一七一六)の絵巻より黄表紙の現れる頃までの赤本と黒本青本、 第二節には十八世紀の最後の三十年間の黄表紙と漢文の版本、第三節には十九世紀の前半 の合巻・読本・随筆・漢文での写本と版本、第四節には幕末の豆本・おもちゃ絵・錦絵・ 双六・絵巻が集まっている。それぞれの作品の内容や伝わってくるメッセージ、登場人物 の擬人化の仕方などに関して記されている。このような分析をもって時間と共に猿蟹合戦 がどのように変化してきたかということが若干でも理解できるであろうと思っている。 例えば、最初の絵本の頃は、様々な筋もあったし、蟹の助っ人には臼・杵・蜂・栗/ 卵の他に包丁・荒布・蛇・真名板・杓子・蛸なども登場するし、猿が一匹のバージョンも あるが数多くの敵を討つ本もあることから、まだ話が一つの形に定まっていなかったこと が伺える。なお、大人向けの黄表紙となると、話の中心が蟹の仇討ちではなくなり、その 代わりに猿と蟹が最後に仲直りするというめでたい結末になる。又、現在語られている話
には蟹の子供が必ずいるが、猿蟹合戦の筋に親の蟹が殺されるのが一般になるのは十九世 紀に入ってからである。それは、悲劇や哀感に満ちていた合巻や読本の作品の流行が、こ の昔話にも影響を受けたからであると言えよう。しかしながら、猿蟹合戦が今日のものに 近づいてきたのは幕末の豆本などの影響のためであろう。その頃は、助っ人が三人(臼・ 蜂・卵)に定まり、結末には今と同じように二つのパターンがあり、猿が臼に押さえられ ることによって、蟹がそれで敵を討ったというパターンと、猿が謝り蟹が勘弁するという パターンがある。 第一章に見た学者達が、全て明治時代以降に集められた資料を使いつつ研究を行って いたが、江戸時代の昔話集などがないため、どのように話が伝われていたかを知るために 文学作品を見るべきであると言えよう。 第三章では、天明元年(一七八一)に刊行された『蟹牛房挾多』という黄表紙を紹介 する。日本語での部分とイタリア語での部分と二つに別れており、日本語での部分におい て、まず、変体仮名を現代仮名遣に直し、翻刻を行った。そして、単語に漢字を与えるこ とと、句読点を打つことによって校訂を施し、最後に注釈をつけた。その上に、イタリア 語の翻訳とイタリア語での注釈も補った。 この作品は、教訓的な話で有名であった市場通笑(一七三七 一八一二)が著し、挿 絵は黄表紙の最初の発達段階において活躍していた鳥居清長(一七五二 一八一五)が描 いたものである。"教訓の通笑"と呼ばれていたにも関わらず、よく知られていた猿蟹合戦 に当時の様々な流行していた歌謡やお店などを加え、ユーモアに富んだ黄表紙を作り上げ た。それゆえに、猿蟹合戦の流れを研究するためだけではなく、江戸時代後期の風俗を理 解するのにも重要な資料になるであろうと思っている。
INDICE
INTRODUZIONE : che cos'è oggi Saru kani kassen... 3
CAPITOLO 1 : Gli studi precedenti... 10
1.1 Takizawa Bakin... 11 1.2 Santō Kyōden... 15 1.3 Koike Tōgorō... 16 1.4 Shimazu Hisamoto... 19 1.5 Yanagita Kunio... 22 1.6 Imakawa Megumi... 27 1.7 Seki Keigo... 29 1.8 Inada Kōji... 32 1.9 Onohara Takashi... 35 1.10 Sawai Taizō... 37 1.11 Hanabe Hideo... 38 CAPITOLO 2 : Testi di periodo Tokugawa... 43
2.1 Opere 1-‐13: primi kusazōshi, kabuki, manoscritti... 56
2.2 Opere 14-‐24: kibyōshi, kanbun... 69
2.3 Opere 25-‐37: gōkan, yomihon, zuihitsu, kanbun... 80
2.4 Opere 38-‐ 61: mamehon, e (omochae, sugoroku, nishikie), emaki... 89
2.5 Conclusioni... 98
BIBLIOTECHE / COLLEZIONI... 103
FONTI IMMAGINI SECONDO CAPITOLO... 108
CAPITOLO 3 : Kani ga gobō hasanda... 113
3.1 市場通笑の黄表紙『蟹牛房挾多』の翻刻... 114
3.2 市場通笑の黄表紙『蟹牛房挾多』の校訂... 146
3.3 市場通笑の黄表紙『蟹牛房挾多』の注釈... 152
3.4 Traduzione e commento... 167
3.5 画像 -‐ Apparato di immagini... 181
APPENDICE : 現代の子供絵本... 193 GLOSSARIO... 195 BIBLIOGRAFIA... 200
INTRODUZIONE: CHE COS'È OGGI SARU KANI KASSEN 猿蟹合戦
Entrando in una qualsiasi libreria giapponese e recandosi al reparto dedicato alle letture per l'infanzia, ci si imbatte sempre in una folta schiera di libri che ripropongono i cosiddetti mukashibanashi 昔話, ovvero quelle che noi denominiamo "fiabe" o "favole". Yanagita Kunio 柳 田 国 男 (1875-‐1962) individua nel genere quattro specifiche caratteristiche: (上略)昔話の方には、始めからもっとはっきりとした意味があって、単に古い話または昔 の話というだけではないのである。子供が親から聴き、もしくは老人の記憶している話にも、 いろいろさまざまの種類がある。「昔話」はその中のたった一つ、すなわち形式としてその 話の初めの一句に、必ず昔とか昔々とか、あるいはもっとたわむれて「とんと昔」、「昔の 昔のその昔」等の語を用い[る。] [1](中略)話だから信じてはいけない、もしくはおも しろければそれでよろしいという心持があって、(中略)古く伝わった「信ずべき物語」と、 差別をしようとしたもののようである。現在の昔話においても、この表示法はかなり堅苦し く守られている。その形式は少なくとも三つあって、一つは(中略)東京とその付近では 「あったとさ」、「言ったとさ」とトサを添え、上方では多くトイナをつけて話す。東北の ムカシコは「あったづぉん」又は「あったちふ」という土地もある。(中略)中国九州では 普通には「あったげな」を用い[る。][2] (中略)第二の形式としては、固有名詞の故意 の省略がある[3]。これは年代を超越した昔という表現に伴うもので、やはりまた聴く人話 す人に、なんのかかわりもないことを明らかにした手段であったろうと思う。(中略)第三 の形式がある。(中略)最後に(中略)必ず形式の句があって、それが地方毎に一定してい る[4]。(中略)一番単純で数の多いのはこれでおしまい、または話はこれだけという意味 の短句である。(中略)もう一つ、今も残っている昔話の末の文句に、「めでたしめでたし」 というのがあって、これは文学にも多く採用せられている。1
[...] Per quello che riguarda i mukashibanashi, vi è un significato molto più esplicito fin dal principio: non si tratta semplicemente di vecchie storie o di racconti del passato. Ci sono molte svariate categorie di storie che i bambini ascoltano dai genitori e che gli anziani hanno impresse nella loro memoria. I "mukashibanashi" rappresentano soltanto una di queste categorie; in particolare, per convenzione nell'incipit della storia viene sempre usata una parola che può essere "tanto tempo fa" (mukashi 昔) o "tanto tanto tempo fa" (mukashi-mukashi 昔々), o ancora in tono più scherzoso "troppo tempo fa" (tonto mukashi とんと昔) o "in un tempo prima del tempo di
1 YANAGITA Kunio, "Kōshō bungei shikō" (Studio sulla storia della letteratura orale), Kōdansha, Tōkyō, 1976,
tanto tempo fa" (mukashi no mukashi no sono mukashi 昔の昔のその昔). [...] Poichè sono racconti (hanashi 話) non si doveva crederci, v'era la sensazione che bastava che suscitassero interesse [...] ed erano un qualcosa che si cercava di tenere separato dalle "storie a cui bisognava credere" tramandate dall'antichità. Questo modo di esprimerlo è stato conservato alquanto rigidamente anche nei mukashibanashi odierni. Le sue forme sono almeno tre; la prima [...] è di narrare aggiungendo a fine frase, a Tōkyō e nelle zone limitrofe, to sa とさ (atta to sa あったとさ, itta to
sa 言ったとさ), mentre nel Kamigata molti usano to ina といな. Nei mukashiko2 del Tōhoku ci
sono regioni in cui si aggiunge atta zuon あったづぉん o atta-chifu あったちふ. [...] Nelle zone del Chūgoku e del Kyūshū solitamente si usa atta gena あったげな. La seconda convenzione è l'abbreviazione intenzionale di nomi propri. Questa si accompagna all'espressione di "un tempo passato" -‐che ha superato generazioni-‐ e ritengo sia un mezzo con cui si specifica che si tratta di eventi che non hanno nulla a che fare né con l'ascoltatore né con il narratore. [...] Vi è una terza convenzione. [...] Alla fine [...] c'è sempre una locuzione prestabilita, la quale è standardizzata per ogni regione. [...] Le più semplici e diffuse sono brevi frasi dal significato "questo è tutto" (kore de oshimai これでおしまい) o "la storia è tutta qui" (hanashi wa kore dake 話はこれだけ). [...] Ve n'è un'altra rimasta tutt'oggi tra le espressioni finali dei mukashibanashi, "lunga vita, lunga vita!"
(medetashi-medetashi めでたしめでたし) e viene utilizzata diffusamente anche in letteratura.
Tornando idealmente agli scaffali dei libri per bambini, tra i mukashibanashi è sempre presente in considerevole numero anche la storia conosciuta come Saru kani kassen, o Saru kani gassen, 猿蟹合戦 ("La battaglia tra la scimmia e il granchio"). Sebbene sulle copertine dei vari volumi si possano trovare anche titoli diversi da questo (vedi appendice 1), il racconto proposto dalla quasi totalità delle opere segue a grandi linee la stessa trama, proposta qui di seguito:
Un granchio ed una scimmia stanno passeggiando insieme quando, a un certo punto, il primo trova per terra un onigiri3 e la seconda un seme di kaki. Gelosa del ritrovamento
dell'amico, la scimmia impone uno scambio al granchio; questi, una volta tornato a casa, pianta subito il seme e, mentre lo irrora d'acqua, canta la seguente filastrocca: "Presto, seme di kaki, germoglia! Se non lo fai, ti tagliuzzo con le mie chele!" (Hayaku me wo dase, kaki no tane. Dasanu to hasami de chongiru zo. 早く芽を出せ、柿の種。出さぬとはさ みでちょん切るぞ). Il seme, spaventato, subito fa uscire una piantina, così il granchio continua a cantare: "Presto, germoglio di kaki, diventa un albero! Se non lo fai, ti
2 Altro nominativo per i mukashibanashi.
tagliuzzo con le mie chele!" (Hayaku ki ni nare, kaki no me yo. Naranu to hasami de chongiru zo. 早く木になれ 、柿の芽よ。ならぬとはさみでちょん切るぞ). In un istante dal virgulto cresce un alto albero, sicché il granchio continua con la sua nenia: "Presto, albero, da' frutti! Se non lo fai, ti tagliuzzo con le mie chele!" (Hayaku mi ga nare, kaki no ki yo. Naranu to hasami de chongiru zo. 早く実がなれ 、柿の木よ。ならぬとはさみで ちょん切るぞ), ed ecco che sui rami dell'albero fanno comparsa frutti a non finire. Il granchio gioisce dell'impresa, ma non sa come raccogliere i kaki, così chiede aiuto alla scimmia promettendole di dividere il raccolto. Quella, non appena arrampicatasi sull'albero, comincia a mangiare senza sosta i frutti maturi e passa al granchio solo quelli acerbi, per poi lanciarglieli contro di cattiveria quando questi comincia a lamentarsi. Per le ferite subìte il granchio muore, ma dalla corazza crepata nascono tanti piccoli granchi che giurano di vendicare la crudele uccisione del genitore. Chiamano così a raccolta il mortaio, l'ape, la castagna e l'escremento di mucca, con i quali progettano un piano. Approfittando di un momento di assenza, si recano a casa della scimmia: la castagna si nasconde tra la cenere del focolare al centro della stanza, l'ape all'interno della tinozza d'acqua, l'escremento di mucca vicino all'entrata e il mortaio sopra la porta dell'abitazione. Quando quella rientra a casa, si siede vicino al focolare per riscaldarsi, ma all'improvviso balza fuori la castagna che la ustiona; la scimmia corre allora verso la tinozza d'acqua, ma quando scopre il coperchio si ritrova davanti l'ape con il pungiglione sfoderato. Spaventata, cerca via di fuga fuori di casa, ma scivola sull'escremento e il mortaio cade di peso dall'alto schiacciandola. A questo punto, sconfitta, la scimmia chiede pietà scusandosi del torto fatto e promettendo di non far più del male, per ricevere infine la grazia dai granchi, che la perdonano.
Vi sono alcuni fattori che cambiano da testo a testo, quali l'esclusione del personaggio dell'escremento dal gruppo degli aiutanti (o la sua sostituzione con un'alga konbu 昆布) o la non ben definita sorte della scimmia (nella metà dei casi visionati l'ultima frase spiega semplicemente che la scimmia rimane schiacciata dal mortaio). In un'unica opera si aggiunge alla storia un dettaglio piuttosto significativo. Si tratta del libro della casa editrice POPLAR PUBLISHING CO.4 : in questa versione i figli del granchio, dopo la morte
4 SAIGŌ Takehiko (testo), FUKUDA Shōsuke (illustrazioni), Saru kanibanashi, "Mukashi mukahsi ehon", vol.
del genitore, si recano da soli verso la montagna dove vivono le scimmie per mettere in atto la loro vendetta; lungo la strada si uniscono a loro l'ape, il mortaio, la castagna5 e
l'escremento di mucca, i quali diventano loro vassalli dopo aver ognuno ricevuto in dono un kibidango6. Questo è lo stesso modo con cui Momotarō 桃太郎, nella fiaba omonima,
recluta la scimmia, il cane e il fagiano prima di recarsi all'Isola Dei Demoni (oni ga shima 鬼ヶ島) per sconfiggerli definitivamente e riportare a casa il tesoro da loro rubato. Non si tratta, tuttavia, né di un errore di memoria, né di un pastiche creato appositamente dall'autore : una storia dal contenuto simile a questo si ritrova, infatti, in altri testi di periodo Tokugawa (1600-‐1868) che propongono Saru kani kassen, e non è un caso che traccia di questa versione sia sopravvissuta fino a tempi recenti. Dell'esistenza di testi in cui la trama dei due mukashibanashi viene in parte a coincidere si parlerà in dettaglio al capitolo 2.
Allargando il campo d'indagine dalle versioni che circolano tramite i libri per l'infanzia a quelle tramandate oralmente (e raccolte nelle antologie di fiabe), scopriamo che a poter subire variazioni non è solo la seconda parte del racconto. Alla voce「さるか にがっせん 猿蟹合戦」del Nihon mukashibanashi jiten7 si legge:
動物葛藤譚の1つ。猿がカニから柿または餅を騙しとり,カニが栗,蜂,牛糞,臼などの援 助を得て,合戦の後,猿に仇を討つという形式が最も多く報告されている。しかし,この昔 話の後半部とほぼ同じ内容の合戦譚を有する昔話は,「猿と雉の寄合田」「猿と蟇の寄合田」 などと同型の昔話で雉やヒキに代わってカニとなっている昔話,「猿と蟹と柿」「蟹の仇討」 「餅争い」「雀の仇討」「牛方山姥」「爺と猿」などの多くにわたる。また,この昔話の全 半部とほぼ同じ内容を有する昔話は,合戦譚を持つ型と持たない型が併存している。分布状 況を考慮してその実態をみると,まず前者のうち餅が争いの原因となる昔話は青森・岩手・ 秋田,柿の場合が東北・関東・北陸・山陽・四国に分布し,後者のうち餅が争いの原因とな る昔話は東北・関東・関西・山陽・九州,柿の場合が本州・四国のほぼ全域となる。ここに 本昔話の基本形を設定することが,形式的にも内容からいっても困難な状況がある。 Uno dei racconti di conflitto tra animali. La forma riportata in numero maggiore parla di una scimmia che porta via con l'inganno un kaki -‐o un mochi8-‐ a un granchio; questi ottiene l'aiuto di una castagna, un'ape, un'escremento di mucca, un mortaio e, dopo la battaglia, si vendica della
5 Nello specifico si tratta di un igaguri 毬栗.
6 Kibidango 黍団子 = dolcetto tradizionale fatto con farina di miglio mischiata a farina di riso. 7 INADA Kōji (hen), Nihon mukashibanashi jiten, Kōbundō, Tōkyō, 1994 , pp. 388-‐389.
scimmia. Tuttavia, i mukashibanashi che hanno un racconto di battaglia dal contenuto praticamente uguale a quello della seconda parte di questa favola, si dividono principalmente in: mukashibanashi quali "Il campo comune della scimmia e del fagiano" o "Il campo comune della scimmia e del rospo"; mukashibanashi che appartengono allo stesso tipo di queste ultime e al posto di fagiani e rospi hanno un granchio; favole come ad esempio "La scimmia, il granchio e il kaki", "La vendetta del granchio", "La lotta per il mochi", "La vendetta del passero", "Il bovaro e la yamanba [strega delle montagne]", "Il vecchio e la scimmia". Inoltre, tra nei mukashibanashi che hanno un contenuto quasi identico alla prima parte di questa favola coesistono la tipologia con annessa la storia della battaglia e quella sprovvista della stessa. Ragionando sulla diffusione di queste ed indagandone la reale situazione, innanzitutto, tra le prime, i mukashibanashi nei quali la causa della disputa è un mochi sono diffusi nelle regioni di Aomori, Iwate e Akita, mentre quelle in cui si parla di un kaki si trovano nelle zone del Tōhoku, del Kantō, dello Hokuriku, del San'yō e dello Shikoku; tra le seconde, i mukashibanashi nelle quali la causa della disputa è un mochi ci sono nelle zone del Tōhoku, del Kansai, del San'yō e del Kyūshū, mentre quelle in cui si parla di un kaki si trovano nell'isola dello Honshū e dello Shikoku -‐ovvero quasi in tutto il paese. Di fatto, delineare qui una forma base di questo mukashibanashi, sia da un punto di vista strutturale che di contenuto, è arduo.
Il fatto che al giorno d'oggi la favola faccia parte del bagaglio culturale comune alla maggior parte della popolazione nipponica in una versione pressoché uniformata è anche il risultato della politica di unificazione identitaria attuata con enfasi dal governo Shōwa negli anni trenta:
By means of centrally unified teaching plans and curriculum, regional differences were to be leveled out, including linguistic and dialectical differences. National pride and a pan-‐Japanese sense of community were instilled in children by means of stories in the readers for primary education (Shogaku kokngo tokuhon) [SKT]. [...]
In the 12 small volumes of the SKT of the Showa years 8 to 13 (1933-‐38), there is a wide variety of subject areas. The curriculum included the most varied topic groups, insofar as they could be presented.[...]
A certain group of reading pieces is particularly well represented in booklets 1, 2 and 3: fairytales. In book 1 one finds the fairytales Shitakiri suzume, Usagi to kame and Momotarō; book 2 contains four fairy tales: Saru to kani, Nezumi no yomeiri, Kobutori, Hanasaka jiji; book 3 contains: Issunbōshi, Kachikachi-yama, Nezumi no chie, Kin no ono and Urashima Tarō. [...] They form the core of Japanese “national fairy tales” , stories now familiar to every person in Japan. Their great popularity can be attributed to the fact that they were included in these elementary school readers. In this way they gained the status of widely disseminated pan-‐Japanese fairy tales. Though some of them might have been known in different regions in different variant
forms, the school had a normative effect on the tales and thus fulfilled its task of developing a
common national consciousness.9
Tuttavia, come sottolinea il Nihon mukashibanashi jiten, cercare di risalire alla versione originaria di Saru kani kassen è alquanto problematico. Innanzitutto, non risulta esserci alcun documento scritto che testimoni l'esistenza stessa del mukashibanashi fino al periodo Tokugawa e, in particolare, prima dell'inizio del diciottesimo secolo, quando appaiono le prime opere letterarie narranti una vicenda simile a quella sopra descritta.
In passato non sono stati in pochi a tentare una ricostruzione dell'evoluzione della favola: personaggi storici quali Yanagita Kunio, insieme a studiosi contemporanei quali Hanabe Hideo, hanno cercato di rintracciare l'origine del mukashibanashi in quanto prodotto della narrazione orale, attraverso l'analisi comparativa con altre favole o la valorizzazione di taluni aspetti antropologici presenti all'interno della narrazione. Altri come, ad esempio, Koike Tōgorō o Sawai Taizō hanno, invece, preso in considerazione Saru kani kassen da un punto di vista più prettamente letterario. Il fatto che i risultati di questi studi portino tutti a conclusioni differenti lascerebbe presupporre che la favola non abbia un'unica genesi, ma molteplici e tutte ugualmente possibili.
Tradizione orale e tradizione scritta sono state finora mantenute separate e studiate isolatamente su binari paralleli. Questa tesi si propone di associare per la prima volta i due aspetti nel tentativo di far chiarezza su una loro possibile e reciproca influenza. Si è cercato, inoltre, di tentare di ricostruire l'evoluzione della favola in periodo pre-‐ moderno, utilizzando fonti temporalmente precedenti alle raccolte di mukashibanashi redatte a partire dal periodo Meiji dai primi antropologi giapponesi. Nel primo capitolo si presenta, dunque, una panoramica sugli studi che già hanno affrontato l'argomento, alla quale si combina, nel secondo capitolo, un lavoro di confronto delle opere prodotte in periodo Tokugawa che trattino anche solo in parte Saru kani kassen. Durante questo lavoro di ricerca si tenterà di individuare quelli che sono gli elementi della favola che rimangono costanti e le variabili che li accompagnano; ci si chiederà, quindi, la motivazione di questi cambiamenti e si cercherà di capire se la storia ha seguito o meno
9
Klaus ANTONI, "Momotarō (The Peach Boy) and the Spirit of Japan: Concerning the Function of a Fairy
Tale in Japanese Nationalism of the Early Shōwa Age", Asian folklore studies, 50, 1, 1991, pp. 160-‐161.
un processo evolutivo lineare che ha portato a una graduale trasformazione fino ad assumere la forma attualmente più diffusa. Nel terzo capitolo, invece, verranno presentati la traslitterazione, la traduzione e il commento del kibyōshi 黄表紙 Kani ga gobō hasanda 『蟹牛房挾多』 ("Il granchio ha pinzato una bardana"). L'opera non solo viene portata ad esempio di come il mukashibanashi sia stato ripreso e adattato10 nella
seconda metà del XVIII secolo, ma si presenta anche come un'utile fonte per meglio comprendere la quotidianità e le mode del tempo.
10 "Adaptation can be a transpositional practise, casting a specific genre into another generic mode, an act
of re-‐vision in itself. It can parallel editorial practice in some respects, indulging in the exercise of trimming and pruning; yet it can also be an amplificatory procedure engaged in addition, expansion,
accretion, and interpolation." [Julie SANDERS, Adaptation and appropriation, London/New York, Routledge,
CAPITOLO 1 : GLI STUDI PRECEDENTI
Di seguito si presenta una panoramica quanto più possibile completa degli studi già effettuati su Saru kani kassen. Con l'unica eccezione di Sawai Taizō (come si vedrà nella sezione 1.10), la totalità degli studiosi che si sono occupati di questa favola la hanno presa in esame nella sua forma orale così come veniva narrata ai loro tempi o come era stata trascritta nelle varie raccolte di mukashibanashi. Nonostante alcuni, nella loro indagine, si siano serviti anche di opere letterarie per comprovare i loro ragionamenti, nessuno di loro si è soffermato ad analizzare con rigore un numero consistente di testi scritti, né si è interrogato sull'evoluzione della favola sui manoscritti e sulle opere a stampa. Si sono, infatti, più interessati a Saru kani kassen in quanto 'masterplot'1,
ritenendo sufficiente basare le loro ricerche principalmente su una delle due forme in cui la favole è stata tramandata nel tempo, quella orale.
Le domande che si sono posti nell'arco della propria ricerca, infatti, sono state altre, quali ad esempio:
• Qual è il luogo di origine del mukashibanashi;
• Qual è il periodo storico in cui esso è andato formandosi;
• Con quali altri mukashibanashi giapponesi esso condivida intere parti o singoli elementi;
• Quali sono i punti di contatto con storie simili narrate in altre parti del mondo; • Quali sono gli aspetti antropologici o naturalistici presenti all'interno della storia.
1 "Masterplots: Recurrent skeletal stories, belonging to cultures and individuals that play a powerful role
in questions of identity, values, and the understanding of life. [...] As masterplots, by their nature, recur in many different narrative versions, it is at least a technical mistake to employ the common term "master narrative" for this concept." [H. Porter ABBOTT, The Cambridge introduction to narrative, Cambridge, Cambridge University Press, 2002, p. 236]
1.1 TAKIZAWA BAKIN 滝沢馬琴 (1767-1848)
Il primo, in ordine cronologico, ad interrogarsi su Saru kani kassen è stato Takizawa Bakin, scrittore inizialmente di kibyōshi sotto la guida di Santō Kyōden 山東京伝 (1761-‐ 1816), ma famoso soprattutto per gli yomihon 読本 composti a partire dagli ultimi anni del diciottesimo secolo. Bakin, il quale provava un forte interesse per i mukashibanashi, dedicò ad essi un intero volume, il quarto, del suo zuihitsu 随筆 Enseki Zasshi2 燕石雑志
(1811). Il quarto capitolo, quello dedicato a Saru kani kassen, inizia con la versione che l'autore richiama alla memoria dalla sua personale esperienza. Le differenze rispetto alla trama proposta in introduzione di tesi e radicatasi ormai nell'immaginario collettivo, possono essere così schematizzate:
-‐ all'inizio della favola, viene specificato che il granchio e la scimmia stanno gironzolando ai piedi della montagna;
-‐ i figli del granchio vittima delle vessazioni della scimmia non nascono dal guscio crepato (non viene specificato nemmeno che questi muore, si dice semplicemente che "non riuscì più ad alzarsi" e okizu 得起きず), ma sono già presenti all'interno della narrazione, e a giurare vendetta sono i parenti tutti del granchio, i quali vogliono scatenare una battaglia con il popolo delle scimmie;
-‐ per mettere in atto il piano di vendetta, invitano con l'inganno il re delle scimmie nella loro tana mostrandosi intenzionati a stipulare la pace ed evitare così la guerra tra i due popoli;
-‐ gli aiutanti dei granchi sono: un uovo (che brucia la scimmia sul braccio, al posto di una castagna), un'ape (nascosta nel barile dell'acqua), un'alga arame3 荒布 (invece
dell'escremento di mucca), un pestello (il quale cade dagli scaffali della cucina) e un mortaio;
2 SANTŌ Kyōden Kottōshū, KYOKUTEI Bakin Enseki zasshi, RYŪTEI Tanehiko Yōshabako, Yūhōdō bunko, vol.3,
Tōkyō, Yūhōdōshoten, 1915, pp. 470-‐486.
3 Eisenia bicyclis, tipo di alga che cresce lungo le coste giapponesi. Veniva usata, oltre che come ingrediente
in cucina, anche come detergente per il bucato e per questo in periodo Tokugawa era presente in qualsiasi casa.
-‐ alla fine i granchi uccidono la scimmia tagliandone la testa.
Bakin, di seguito, prende in esame separatamente alcuni elementi della favola e ne ricerca le fonti in testi cinesi, portando ad esempio numerosi passaggi di racconti che vi assomigliano e che secondo lui dimostrerebbero come la favola sia nata da un reimpasto di tutti questi frammenti, adattati al contesto e al pubblico giapponese. Di seguito si propone una cernita di questi passaggi.
In primo luogo, Bakin analizza la combinazione dei due animali protagonisti della discordia, per poi, più avanti nel saggio, passare anche ai personaggi inclusi negli aiutanti. Esempi di granchi (in particolare lo yūbō 蝤蛑, una specie dalle grandi dimensioni) che combattono contro tigri si ritrovano nel Zoku hakubutsushi4 続博物志 e
nello Seikan kairoku5 晴川蟹録 (da qui in poi abbreviato Kairoku), mentre nel Kōiki6 廣
異記 si parla della lotta tra un granchio e il dio della montagna dalla forma di serpente, il quale in conclusione muore decapitato dal crostaceo. Similarmente, nello Zuda monogatari7 頭陀物語 si ritrova un episodio di un granchio che combatte un lombrico,
dove si specifica anche che il secondo mangia gli uomini e il primo, uccidendolo, assurge a salvatore dell'umanità. Secondo Bakin, la tigre delle storie cinesi è stata trasformata in scimmia per il fatto che il felino non è presente sul territorio giapponese.
A conferma del legame che ci sarebbe tra i crostacei e le scimmie e del sentimento di rancore dei primi nei riguardi delle seconde, vengono quindi portati ad esempio vari estratti da testi cinesi citati nel Kairoku. Innanzitutto, nello Shoshō8 書蕉 di Mei Gong9 眉
広 si parla di un uomo di piccola stazza che vive sulle montagne di nome di Sansan 山犭參 , il quale si nutre di granchi. Bakin si chiede se il sansan non sia un differente tipo di
4 Seguito e ampliamento dello Hakubutsushi 博物志 , raccolta di informazioni su animali e piante rare,
credenze di popoli stranieri e storie fantastiche attribuito al poeta Zhang Hua 張華 (232-‐300). Lo Zoku hakubutsushi è stato invece scritto da Li Shi 李石 (1108-‐1181) dei Song.
5 Qingchuan xie lu, compendio in 4 volumi su caratteristiche, fatti, brani letterari e poesie sui granchi del
XVII/XVIII secolo scritto da Sun Zhilu(ji) 孫之騄(輯) dei Qing.
6 Guang yi ji, raccolta originariamente in 12 volumi di storie fantastiche del regno dei Tang (618-‐907)
redatto da Dai Fu 戴孚 nel 757, per poi essere ampliato dai figli alla sua morte.
7 Altro nome del Bashōō zudamonogatari 芭蕉翁頭陀物語, scritto da Kyūroan Ryōtai 吸露庵涼袋 (Takebe
Ayatari 建部綾足) nel 1751, presenta aneddoti delle vite di poeti di haikai 俳諧.
8 Shu jiao, anche noto col titolo Bi ji 筆記.
9 Mei Gong è uno degli epiteti di Jiru Chen 陳繼儒 (1558-‐1639).
santo 山都, un babbuino anziano , che secondo quanto riferito nel Jutsuiki10 述異記 ruba
i granchi strappando le trappole preparate dai pescatori; a ulteriore riprova di questo, nello I'en11 異苑 si parla di un animale denominato sansei 山精, simile alle persone,
mangiatore di granchi di fiume.
A spiegare la moltitudine di granchi che decidono di attaccare la scimmia sarebbe, poi, un aneddoto del Shukuen zakki12 菽園雑記 (citato nel Kairoku), che narra di come un
pescatore che si alimentava quotidianamente di crostacei pescati agli argini del fiume smise definitivamente la sua attività dopo essersi commosso, un giorno, nel vedere due granchi aiutarne a scappare un terzo ormai sprovvisto di tutte e otto le zampe.
Altro esempio di granchi che si radunano e combattono insieme si trova anche in Giappone, nel caso della leggenda sulla fondazione del tempio Kanimanji (nominato nello Enseki: Kanimandera) 蟹満寺 che si trova a Kizugawa, nella prefettura di Kyōto. Raccontata, ad esempio, nel Genkōshakusho13 元享釋書, la storia narra di come migliaia
di granchi di piccole e grandi dimensioni abbiano combattuto e sconfitto un serpente che rivendicava il possesso della figlia di un uomo, promessagli in sposa da quest'ultimo affinchè lasciasse vivere un rospo che stava per divorare. Una volta seppelliti i resti del serpente e dei granchi sacrificatisi per la propria figlia, i genitori vi costruirono sopra il tempio buddhista dal nome sopra indicato.
Bakin ricorda, inoltre, le leggende per cui gli spiriti rancorosi di guerrieri morti in battaglia si sarebbero impressi sulla corazza del granchio Heikeopsis japonica, denominato a seconda dei luoghi di provenienza delle leggende heikegani14 平家蟹,
takebun kani15 武文蟹, shimamuragani16 嶋村蟹. Tutti questi esempi chiarirebbero
10 Shu yi ji, vi sono due testi con lo stesso titolo, i quali raccolgono miti, leggende, storie di medicine
miracolose e altro ancora: uno redatto da Zu Chongzhi 祖冲之 dei Qi meridionali (479-‐502) in 10 volumi e l'altro da Ren Fang 任昉 dei Liang (502-‐557) in due volumi.
11 Yi yuan, redatto da Jingshu Liu 劉敬叔 dei Song (420-‐479), tratta in 10 volumi di dèi e spiriti. 12 Shu yuan za ji, testo dello studioso Rong Lu 陸容 (1436-‐1494) dei Ming (1368-‐1644).
13 Testo storico sul buddhismo di fine periodo Kamakura (1185-‐1333) in 30 volumi, scritto dal monaco
della scuola Rinzai Kokan Shiren 虎関師錬 (1278-‐1347).
14 Nominativo più comune per questo granchio, deriva dalla famiglia Taira, sconfitta nella battaglia di Dan
no Ura (1185) dai Genji, i cui membri morirono tutti annegati.
15 Altro nome dello heikegani. Il nome deriva da quello del guerriero Hata no Takebun 秦武文, morto
affogato durante la guerra Genkō (1331).
16 Altro nome dello heikegani. Il nome deriva da quello di un guerriero di periodo Sengoku (1467-‐1573)
che mentre il suo padrone Hosokawa Takakuni 細川高国 (1484-‐1531) veniva ucciso, sconfitto in battaglia, si era gettato in mare con combattendo con due nemici, morendo annegato.
perchè i granchi della favola in questione abbiano il forte desiderio di vendicarsi di un torto subìto.
L'accoppiata ape/scimmia deriverebbe, invece, dalla lettura on dei due caratteri, rispettivamente 'hō' (ほう 蜂) e 'kō' (こう 猴), che ricordano la parola hōkō 封侯, dal significato di daimyō, mentre quella pestello( 杵 )/mortaio( 臼 ) dal nome di un discendente (kōson 公孫) della casata dei Chō17 趙 Shokyū 杵臼 (? -‐ 597 a.C.), il quale,
secondo quanto riporta lo Shiki18 史記, aiutò insieme a Tei'ei 程嬰 a vendicare l'unico
erede rimasto in vita dello statista Chōsaku 趙朔 (? -‐ 598 a.C.), dopo la sua morte e la temporanea caduta della casata.
Il fatto che il granchio conceda il riso trovato per terra alla scimmia, ovvero il motivo scatenante della discordia tra i due, sarebbe da ricondurre a un episodio inserito nel Chōshōshū19 張敞集, dove si parla dell'uomo chiamato Shō il quale decise di condividere
la polpa di granchio sotto sale (kani no hishio 蟹の醤) ricevuta in dono con le altre persone rispettose dell'operato degli anziani (sanrō no okonai 三老の行20).
Il titolo Saru kani kassen deriverebbe, infine, dal termine utilizzato nella cultura Wú21
(go 呉) kakōkairan 蝦荒蟹乱, che indicava l'andare in guerra con un'armatura coriacea (come un carapace di granchio) e un'arma affilata e tagliente (come le sue chele).
Bakin si concentra sui singoli elementi compositivi della favola svolgendo un dettagliato lavoro di confronto con altri aneddoti e di ricerca di possibili fonti scritte, ma senza prendere in considerazione le numerosi varianti che già si erano espresse in opere a lui contemporanee e senza cercare di trarre conclusioni globali che possano far luce sullo sviluppo complessivo della favola nel tempo. Resta da chiedersi se il suo scopo non si limitasse al semplice divertissement letterario o se Bakin considerasse la sua analisi punto di partenza per uno studio successivo, se non un già esauriente risultato.
17 Risiedente nel regno di Jin 晋.
18 Shi ji, testo sulla storia cinese in 130 volumi, compilato da Shiba Sen 司馬遷 (ca 145 a.C. -‐ ca 86 a.C.)
degli Han (206 a.C.-‐220 d.C.).
19 Non è stato possibile rintracciare notizie riguardo a questo testo.
20 Anziani suddivisi in tre fasce d'età: sopra i 100 anni, sopra gli 80 anni, sopra i 60 anni. Secondo un'altra
teoria gli anni sarebbero da suddividersi in 100, 90 e 80.
21 Regno cinese nel periodo delle primavere e degli autunni (770 a.C. -‐ 403 a.C.) che si trovava a valle del
1.2 SANTŌ KYŌDEN
Famoso scrittore di gesaku 戯作 di tardo periodo Tokugawa, in un primo momento si dedica a kibyōshi e sharebon22 洒落本 per poi spostarsi, dopo i problemi con la censura
avuti a causa dei secondi, a yomihon e saggi. Incluso in quest'ultima categoria è il Kottōshū23 骨董集, scritto nel 1813 e pubblicato nei due anni successivi (il primo e
secondo volume nel 1814 e il terzo nel 1815).
Secondo Kyōden, i mukashibanashi deriverebbero in larga parte da racconti buddhisti (bussetsu 仏説), ma anche da monogatari storici (kokushi monogatari bumi 国史物語ぶ み) o da aneddoti cinesi (kando no koji 漢土の故事), e in particolare Saru kani kassen sarebbe la versione più estesa di una storia narrata nel Konpon setsu issai ubu binaya
zōji24 根本説一切有部毘奈耶雑事, contenuto a sua volta nel ventiquattresimo volume
del Giso rikujō25 義楚六帖:
有(あり)二隠(いん)ー人(じん)一。有(ありて)二果樹(くわじゆつの)下(もとに)一座(ざす)。被(ら れて)二(さ)ー猴(るに)擲(なげ)一レ果(くわを)(クダモノ)。破(やぶる)レ額(ひたひを)。忍(しのび て)レ之(これを)不(ず)レ報(むくは)。後(のち)有(あり)二獵(れう)(カリ)ー者(しや)(ウト)一。與 (と)レ仙人為(たり)レ友(とも)。来(きたつて)在(あつて)二樹(じゆ)ー下(かに)一坐(ざす)。擲(な ぐる)如(ことごとし)レ前(さきの)。獵(れう)ー者(しや)怒(いかつて)射(いて)レ之(これを)致(い たす)レ死(しを)。佛(ほとけと)與(と)レ天(てん)ー受(じゆ)26
Un eremita era seduto sotto un albero quando [all'improvviso] gli vengono lanciati contro dei frutti da una scimmia [che si trovava sui rami], ma anche se viene ferito alla fronte lui sopporta [il dolore] senza vendicarsi. Tempo dopo l'eremita insieme ad un cacciatore suo amico si siedono sotto lo stesso albero; come la volta precedente, vengono lanciati loro contro dei frutti, ma il
22 Tipo di kusazōshi pubblicati inizialmente nella zona del Kamigata a partire dalla seconda metà dell'era
Kyōhō (1716-‐1736) e, in seguito, anche a Edo. Sono storie ambientate nei quartieri di piacere e anche le storie narratevi erano incentrate in quel mondo.
23 Kokumintosho kabushikikaisha (hen), Nihon zuihitsu shū (Raccolta di zuihitsu giapponesi), vol. 13,
Tōkyō, Kokumintosho, 1928, pp. 99-‐100.
24 Testo tramandato della scuola buddhista indiana Setsu issai ubu (nata a 300 anni dalla morte del
Buddha storico) tradotto in cinese dal monaco Tang Gijō 義淨 (635-‐713).
25 Shishi liutie, sorta di enciclopedia buddhista redatta dal monaco Shi Yichu 釋義楚 in 24 volumi
(terminati nel 954) che raccoglie non solo precetti, ma anche estratti di testi precedenti.
26 Kokumintosho kabushikikaisha, Nihon zuihitsu..., op. cit., p.100.
cacciatore al comportamento della scimmia si adira e la uccide scoccando una freccia. La scimmia, così, riuscì a raggiungere il paradiso insieme a Buddha.
Kyōden fa un lavoro opposto e complementare rispetto a quello di Bakin, in quanto è andato a cercare quella che ritiene essere l'ossatura, la struttura centrale della favola, alla quale sarebbero poi stati aggiunti vari dettagli (edaha 枝葉) che potrebbero essere quelli individuati da Bakin e riassunti nella sezione precedente.
1.3 KOIKE TŌGORŌ 小池藤五郎 (1895-1982)
Koike Tōgorō, padre di Koike Masatane e professore dell'Università Imperiale di Tōkyō, scrisse un articolo su Saru kani kassen nel 193727, prendendo come pretesto una
polemica accesasi qualche anno prima a partire da un articolo comparso sullo Yomiuri Shinbun e alimentata da alcuni intellettuali dell'epoca. In quel pezzo, uscito il primo settembre del 1933, si parlava dei cambiamenti apportati alla storia Saru to kani サルト カニ nel nuovo libro di letture per le scuole elementari (Shōgaku kokugo tokuhon 小学国 語読本) che sarebbe dovuto entrare in uso in tutto il paese a partire dal mese successivo. Si intendeva, con questa nuova ristampa, rimuovere qualsiasi elemento ritenuto inadatto alla sensibilità dei giovani scolari e inappropriato alla loro educazione. Koike in apertura di saggio riporta l'articolo del quotidiano nel quale si legge:
改正の主な點は、舊讀本に、「ハヤクメヲダセ、カキノタネ。ダサヌトハサミデハサミキ ル。」とあるを、「早クメヲ出セ、 早クメヲ出セ。」と改めて、脅迫がましい態度を除いた 事が第一である。次に前には猿が青い柿を投げつけて叩き殺す處を、新讀本ではちょっと怪 我した程度にとどめた。子蟹が蜂や臼などの友達の助けによって、親の仇を討つところを、 今度は、「サルハ、トウトウ、ジブンガワルカッタトアヤマリマシタ。カニハ、ユルシテヤ リマシタ。」と改めて残虐味を一掃した。 27